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フリガナキリハラ ケンシン
ローマ字KIRIHARA Kenshin
氏名桐原 健真
学位博士(文学)・東北大学2004年 
所属文学部 / 日本語日本文化学科
職名教授
所属学会日本倫理学会 日本思想史学会 日本思想史研究会 日本文芸研究会 明治維新史学会 日本宗教学会 東北史学会 日本近代仏教史研究会 
専門分野哲学 史学 文学   
研究課題近代日本における自他認識の転回 近代日本における宗教空間の研究 死生学研究 

学会及び社会における活動等

開始年月 活動内容 終了年月
2011年 5月 東日本大震災被災者支援団体・心の相談室(広報担当) 現在に至る
2013年 4月 奈良県立大学ユーラシア研究センター客員研究客員 現在に至る
2013年 4月 大学入試センター試験問題作成委員 2015年 3月迄
2013年10月 奈良県・日本と東アジアの未来を考える委員会委員 現在に至る
2014年10月 日本思想史学会常任委員 現在に至る
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受賞歴

受賞年月 受賞名
2010年10月 第4回日本思想史学会奨励賞受賞:『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会、2009年)
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著書

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
佐々木寛司・保立道久ほか10名『高等学校 日本史A改訂版』(212頁) 共著 2008年 3月 清水書院 19世紀以降の文化史・思想史を中心に担当。一国史に留まらない世界史的視野からの叙述に努めた。
陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真共編著『東アジアにおける公益思想の変容――近世から近代へ』 共著 2009年 3月 日本経済評論社 私益や国益とは異なる公共の利益=公益という概念を用いて、近世から近代における日中の社会事業思想の展開を検討した論攷を所収する。前書同様、日本のみならず中国・台湾・香港・アメリカなど多彩な研究者によって執筆されている。「調和社会」を国家的目標とするに至った中国において、公益概念は今まさに議論の焦点であり、今後さらなる展開が期待されるものである。
陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真共編著『近代東アジアの経済倫理とその実践――渋沢栄一と張謇を中心に』 共著 2009年 3月 日本経済評論社 「渋沢国際儒教研究」(陶徳民代表)における三度の国際シンポジウムでの発表を精選し、論文としてリライトしたもの。しばしば欧米―日本の枠組みで語られる経済思想史において、近代東アジアという視座から日中比較を展開。とくに「中・日はやや近し。宜しく日にのっとるべし」と日本にその近代化のモデルを見た清末・民初の実業家である張謇と渋沢栄一の比較の試みは、経済思想史・経営史の分野における先駆的営為であると言えよう。
桐原健真『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』 単著 2009年 6月 東北大学出版会 博士(文学)取得論文(東北大学・2004年)を大幅に改稿したもの。「対外認識」という他者認識の変化のみで論じられることが多かった開国過程を、本書は自己認識の変容過程としても捉え、幕末の尊攘思想家である吉田松陰を主題に、幕末日本における自他認識の転回を論じた。本書は、『講孟余話』の成立過程や白旗認識など松陰研究としてもこれまでにない視座から論じた。2010年度日本思想史学会奨励賞受賞。
桐原健真編『東北大学臨床死生学研究会研究報告』 共著 2010年10月 東北大学臨床死生学研究会 人文学と臨床の現場との協業をテーマに開催された2度のシンポジウムをもとにまとめた論文集。桐原健真(代表)「医療現場との対話による「臨床死生学」の確立――歴史的・文化的アプローチに基づいた「死生」観研究とそのアーカイブ化」(2007年度東北大学若手研究者萌芽研究育成プログラム)の成果でもある。
『高等学校 日本史A 最新版 指導と研究』 共著 2014年 3月 清水書院 高等学校教科書である清水書院刊『日本史A』の解説書。19世紀以降の文化史・思想史を中心に担当。一国史に留まらない世界史的視野からの叙述に努めた。
『高等学校 日本史A 最新版』 共著 2014年 3月 清水書院 近世後期ならびに近代の文化史・思想史を中心に担当。19世紀以降の文化史・思想史を中心に担当。一国史に留まらない世界史的視野からの叙述に努めた。
桐原健真『吉田松陰:「日本」を発見した思想家』ちくま新書、2014年12月08日、(256頁) 単著 2014年12月 筑摩書房 幕末の尊王攘夷運動を主唱し、維新に大きな影響を与えた吉田松陰。失敗を繰り返し、太く短く終えたその生涯で、いかなる思想を抱いていたのか。膨大な書簡や意見書、著書を丹念に読み解くことで浮かび上がってきたのは、決して偏狭な原理主義者などではなく、海外の情勢に通じ、開かれた国際秩序像を持つ一個の思想家の姿だった。度重なる挫折にめげず、いかに「日本」を発見し、世界における我が国の自己像を獲得するに至ったか。その歩みを追い、「蹉跌の人」の実像に迫る。
桐原健真『松陰の本棚:幕末志士たちの読書ネットワーク」 単著 2016年10月 吉川弘文館 幕末、古今東西の書物を読破し日本や世界の情報を収集した〝読書魔〟吉田松陰。彼にとって書物とは何だったのか。水戸学の代表作『新論』を求め続けた松陰の知的遍路や、獄中に記した『野山獄読書記』から松陰の思想形成の変化を追う。各地の志士たちとの書籍貸借が育んだ同志的ネットワークの展開にも迫り、書物を通して新たな幕末の姿を描く。全202頁。
佐々木寛司代表・共著『高等学校 日本史A 新訂版』清水書院、2017年 共著 2017年 清水書院 近世後期および文化史全般を担当した。19世紀以降の文化史・思想史を中心に担当。一国史に留まらない世界史的視野からの叙述に努めた。
岩田真美・桐原健真共編著『カミとホトケの幕末維新:交錯する宗教世界』 共著 2018年11月 法藏館 幕末維新は単なる断絶ではない。そこには近世から流れる文化的水脈があった――。「廃仏毀釈」「世直し」「民衆宗教」「キリシタン禁制」「攘夷」「伊勢神宮」など時代を彩るキーワードに焦点を当てつつ、思想・宗教の側面から幕末維新期を再考。維新から150年以上を経て、文化史の視座から近世と近代の架橋を試みる研究入門書である。
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学術論文

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克」 単著 2001年 3月 『日本思想史研究』33号、83~101頁(紀要) 大久保利通・木戸孝允ら明治国家の建設者Statesmenは、天皇に敬意を払いつつも、時に「玉」として道具的に利用した。このような態度は、「主君「押込」の構図」(笠谷和比古氏)に系譜するものと指摘される。本稿は、近世家臣団のエートスと幕末志士のそれとが連続するものではなく、情誼的な君臣一体を主張する松陰のような存在が、既存の家臣団的エートスを破壊することによって、はじめて合理的で近代的なStatesmenのエートスが誕生したことを明らかにした。
桐原健真「幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に」 単著 2001年 9月 『文芸研究』152号、25~37頁(査読論文) W. マーティン漢訳『万国公法』が登場する19世紀中葉以前の東アジアには、国家間の対等観念は存在しなかったと言われる。しかし、18世紀末以降の蘭学者をはじめとした日本知識人は、ヨーロッパの文物の受容を通して、「帝国」「王国」「独立国」「属国」といった近代的な国家概念を受容しつつあった。本稿は、日本を「帝国」と規定する松陰が、これらの概念を用いて、いかに国家間の対等を描き出そうとしたかを論じたものである。
桐原健真「吉田松陰における「転回」――水戸学から国学へ」 単著 2002年 4月 『歴史』98号、50~71頁(査読論文) 国学と水戸学とは、ともに幕末思想史における起爆剤であった。しかし、多くの研究では、王政復古・明治維新を終着点とする尊攘思想のバリエーションに過ぎないと見做されがちである。本稿では、松陰の読書記録の計量的分析から、彼の尊攘思想が水戸学的大義名分論から国学的尊王論へと大きくシフトし、これによって幕藩体制そのものを批判する理論的基礎を手に入れることができたことを、研究史上はじめて明らかにした。
桐原健真「吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察」 単著 2003年10月 『文化』67(1・2)号、1~11頁(査読論文) ロジャ・シャルチェ氏らにはじまる「読書の社会史」への試みは、日本における文化史研究にも大きな影響を与えており、本稿もまたその一つである。多くの研究が蔵書の系統的分析であるのに対し、本稿は、獄中・幽囚中の松陰が読破した書籍の基礎的データ分析を行った点に特筆すべき点がある。前稿「吉田松陰における「転回」」では、尊王関係書籍のみの考察であったものを、すべての内容にわたり網羅的・計量的に再検討した。
桐原健真「「論争の書」としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半」 単著 2004年 1月 『歴史評論』645号、64~80,63頁(査読論文) 「講孟余話の思想構造の分析」のように、作品論的な松陰の「思考様式」の抽出に強く異を唱えたのが藤田省三である。本稿は、松陰の主著と呼ばれる『講孟余話』が、体系的で一貫した著作ではなく、老朱子学者の山県太華との一年有半に及ぶ論争の記録であり、またこれを通して松陰が思想的に変化したことをはじめて明らかにした。この考察により、作品論的ではない「状況的」(藤田)な『講孟余話』の読み解きが可能になった。
桐原健真「『新論』受容の一形態――吉田松陰を中心に」 単著 2004年 4月 佐々木寬司編『国民国家形成期の地域社会―近代茨城地域史の諸相』岩田書院、61~90頁(共同研究論文集) 「志士のバイブル」(高橋文博氏)と評される『新論』も、はじめから諸手を挙げて歓迎されたわけではない。むしろその自民族中心主義的発言のために敬遠するものも少なくはなかったのであり、若き松陰もまたその一人であった。本稿は、幕末の一志士である松陰が、日本を語るための〈言説〉を用意した書として『新論』を受容していった過程を明らかにすることで、研究史上における『新論』理解の再検討の必要性を説いている。
桐原健真「吉田松陰と東北遊歴」 単著 2004年11月 『日本学研究』2号、24~35頁(依頼論文) 思想はたんなる観念ではない。その観念を裏付ける経験や物質の存在が不可欠である。尊王攘夷を掲げる兵学者・吉田松陰にとって、守るべき「日本」という全体性は、書物の中に見いだされたのではなく、日本全国を遊歴することで、その目と足で獲得したものであった。本稿は、亡命(脱藩)したために、藩という帰属対象を失った松陰が、東北遊歴のなかで、藩を越えた帰属対象(「皇国」)の存在を発見していく過程を叙述している。
桐原健真「幕末における普遍と固有――吉田松陰と山県太華」 単著 2005年 3月 『年報日本思想史』4号、1~10頁(依頼論文) 博論結論の骨子となった論文。「天地間一理」という朱子学的テーゼに基づき、彼我の無差別・四海同胞を説く太華に対し、松陰は固有性としての日本の「国体」を第一に据え、その上で、同様に固有性を有した他者(他国)との対等な相互承認を主張する。彼は、地上における普遍(=国際社会)の実現には、その基礎となる自己の確立(=国家の独立)が必須であり、抽象的な普遍性に依拠することはできないと考えていたのである。
桐原健真「「環境」へのまなざし――日本における自然観の連続と非連続」 単著 2005年 5月 張謇研究中心『中日近代企業家的人文関係与社会貢献――渋沢栄一和張謇的比較研究国際会議論文集』南通・張謇研究中心、217~224頁(共同研究論文集) 渋沢栄一の田園調布開発計画の思想的背景を、イギリスを中心とする「田園都市」の思想との比較の中から論じたもの。とくに、職住分離という現在のベッドタウン構想を先取りした思考が、日本における伝統的自然観とふかく結びついていたことを明らかにした。
桐原健真「蘭学の成立と内憂外患」 単著 2005年 5月 佐藤弘夫編集代表『概説日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年5月、194~202頁 近世後期の学術における視野の広がりを、蘭学・経世論および水戸学という側面から叙述したもの。とくに、経世家をコアとした文化的ネットワークの形成が、幕藩体制の動揺に対する市井からのリアクションでもあったことを指摘。
桐原健真「吉田松陰の「神勅」観――「教」から「理」へ、そして「信」へ」 単著 2005年 6月 『倫理学年報』54号、161~174頁(査読論文) 自己同一を根拠づけるものは何か――「皇国の皇国たる所以」を模索した松陰はこの問に直面していた。近代以降、その解は万世一系に求められたが、単なる歴史的事実であるそれに依拠できなかった彼は、本居宣長『古事記伝』から日本の永遠性を保証する神聖な約束としての「天壌無窮の神勅」の存在を学ぶ。無神論者の彼は神勅を怪異と知りつつ信じた。そこには近代国体論とは異なる「不合理ゆえに吾信ず」という精神的態度があった。
桐原健真「幕末志士における読書 ――吉田松陰をめぐる同志的ネットワーク構築の一例として」 単著 2005年 8月 明治維新史学会編『明治維新史研究8・明治維新と文化』吉川弘文館、105~125頁(査読論文) 読書論を、書誌学的視点からではなく、書籍の貸借という物質の流通に着目し、そこから同志的ネットワークという精神的な結合が形成されていたことを明らかにした論文。幕末志士における公共性の基礎となったその「志」なるものが、「尊王」や「攘夷」といったたんなる観念的な言説などではなく、実際の具体的な関係の中で育まれていったことを明らかにした。
桐原健真「日韓比較尊攘思想研究 ――尊華攘夷と尊王攘夷のあいだ」 単著 2005年12月 『南冥学研究』20号、389~435頁、韓訳:411~432頁(依頼論文) 19世紀の日本と韓国では、奇しくも「尊攘」という同じスローガンで、排外運動が展開した。本稿はこの両者の尊攘思想の比較研究である(吉田松陰と韓国の朱子学者許愈)。変化する現象としての「気」の論理に基づく日本尊攘論は、その流動性ゆえに容易に開国論へ転じたが、万物の根拠としての「理」の論理に基づく韓国のそれは、その原理主義ゆえに保守性を有していたが、他方で最後まで反植民地運動の理論的基礎ともなったのである。
桐原健真「東方君子国の落日――『新論』 的世界観とその終焉」 単著 2006年12月 『明治維新史研究』3号、1~15頁(査読論文) 近代日本において「国体」ということばは「魔術的な力」(丸山真男)を発揮した。しかしこのことばを、幕末日本に喧伝した会沢正志斎の『新論』では、近代におけるような「万世一系」の「万邦無比」性という意味で用いられてはいなかった。会沢は、日本の尊厳性を、儒学的な世界観である「東方君子国」説にもとづき叙述したのであり、そこには儒学の普遍性が信じられなくなった近代国体論との大きな断絶がある。
桐原健真「『新論』的世界観の構造とその思想史的背景」 単著 2007年 3月 『茨城県史研究』91号、68~84頁(依頼論文) 近世日本には西洋から様々な地理知識がもたらされた。だがその客観的な世界叙述が、客観的な世界像を結んだわけではない。日本を右端(極東)に描く双円形世界図に接した新井白石は、日本が世界の最先端に位置する存在であることを確信した。白石を敬慕する会沢正志斎もまた、日本が極東に位置するという客観的事実を主体的に読み替え、独自の「東方君子国」言説を展開する。客観的事実は、無条件に客観的認識を生まないのである。
桐原健真「作為近代化的模式――新新世界之雛形」 単著 2007年10月 第四届張謇国際学術研討会組委会編『張謇与近代中国社会』南京大学出版会、173~179頁(査読論文・葛睿中文訳) 清末民初の中国における殖産興業に尽力した政治家・実業家の張謇における近代化の思想を論じたもの。日清戦後に日本を訪れた張謇は、近代化のモデルとして日本を選択する。そこには、清朝が「富国」を欠き「強兵」のみを志向していたことへの強い反省が存していた。彼の一生は、「夷の長技を以て夷を制す」という魏源以来の改良主義を乗り越え、軍事的にではなく実業を以て〈立国自強〉を実現することに捧げられたのである。
桐原健真「「外夷の法」――吉田松陰と白旗」 単著 2008年 3月 『日本思想史研究』40号、82~98頁(紀要) 戦闘における休戦状態を示す白旗の受容は、ヨーロッパ国際法の理解のメルクマールとしばしば見做されてきた。本稿は、ペリーの砲艦外交の象徴と言われる「白旗書翰」に接した松陰が、これを偽書と判断するにいたった根拠を、その西洋知識との関わりから明らかにした。また兵学師範時代には、白旗を「外夷の法」と見なし、これを拒否した松陰が、その意味と有効性を承認する過程を通して、彼の西洋認識の転回を描き出した。
桐原健真「「帝国」の誕生――19世紀日本における国際社会認識」 単著 2008年 8月 黄自進編『東亜世界中的日本政治社会特徴』台北・中央研究院人文社会科学研究中心亜太区域研究専題中心、139~164頁(査読論文) 「帝国」という語が、蘭学者の翻訳語(keizerrijk)であることは余り知られていない。だがこの語が「皇帝―国王―公侯」といった階層秩序を有する漢字文化圏に投げ入れられたとき、「帝国―王国―公侯国」という新たな階層的国家間関係が描かれるようになる。かくて日本は自らが「帝国」であることを堅持し、朝鮮王国は大韓帝国を唱えるに至る。そこでは、伝統的な冊封の論理と西洋的な主権の論理という二つの思想が複雑に絡み合っていた。
桐原健真「死而不朽――吉田松陰における死と生」 単著 2008年10月 『季刊 日本思想史』73号(「霊魂観の変遷」特集号)、55~74頁(依頼論文) その言動の激しさゆえに再投獄された松陰は、友人・弟子らからも敬遠されてしまう。この絶望的状況の中で、彼は自身の刑死を求め、その死を通して生者を奮起させようとする。志の継承による不朽を彼は目指したのである。やがて彼はこのような死の手段化を反省し、生を充実させて生きることを志す。この転回の背後には、人間の一生を四季のように完結させることで、その不朽性が実現できるという独自の生命観の獲得があった。
桐原健真「「病院」の思想――西洋社会事業観念の展開」 単著 2009年 3月 陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編著『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、117~136頁(査読論文) 現代日本社会で8割を越える病院死者の多くは、社会から隔離された病院での死を望んでいなかった。現代の病院は死に往く者の肉体を取扱う場であって、その魂をケアspiritual careする場ではない。本稿は16世紀にキリシタン宣教師がもたらした霊と肉の救済施設としてのhospitalがいかに認識されたかを通して、霊性的救済を否定し肉体的救済のみを追求する近代的で合理的な医学理解の成立過程を描き出した。
桐原健真「求法の道――河口慧海と「日本仏教」」 単著 2009年 3月 小川原正道編『近代日本の仏教者における中国体験・インド体験』DTP出版、61~72頁(共同論文集) 二度のチベット旅行を行った河口慧海(1866~1945)は、「前人未踏」のチベットへの探検家として評価されることが少なくない。しかし彼のチベット行は、「一切衆生を済度」する大乗仏教の僧としての「求法の旅」であった。本稿では、彼が旅立つ思想的背景を、同時代の日本における仏教界の動向とあわせて検討することで、そこにキリスト教宣教師を中心とする大乗非仏説論という宗教論争が存在していたことを指摘した。
桐原健真「〝あの世〟はどこへ行ったか」 共著 2009年 5月 清水哲郎監修・岡部健/竹之内裕文編『どう生き どう死ぬか――現場から考える死生学』弓箭書院、163~183頁(執筆箇所:172~181頁)(共同論文集。諸岡了介共著) 今日、あの世を信じていることを公言するものは少ない。だがこの世ではないものとの関わった体験を語る臨終間際の患者やその家族は4割を越える。これは、独りで死ぬことを回避しようとする志向の現れと言えるが、死後のことを語ることを極端に避ける傾向にある現代日本社会において、こうした声はかき消されがちである。本稿では、近世から近代に至るこのような傾向の成立過程を思想史的に論じたものである。
桐原健真「日本人の死生と自然」 単著 2009年 5月 清水哲郎監修・岡部健/竹之内裕文編『どう生き どう死ぬか――現場から考える死生学』弓箭書院、185~204頁(共同論文集) 近世後期の日本知識人に芽生えた合理的思考は、超越性や死後の語りを拒否する不可知論、さらには無神論へと彼らを導いていった。それは近代に入り、自然を支配する人間観の確立とともに、人間の死という避け難い自然事象自体の忌避へと繋がっていく。本稿は、近代以前の思想家である二宮尊徳と吉田松陰を取り上げ、彼らが人間を超越して働きかける存在としての自然をいかに認識し、自らの死後の安心を獲得していったのかを論じた。
桐原健真「「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に」 単著 2009年10月 地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、91~110頁(査読論文) 近世日本の学派の多くが首唱者の名で呼ばれるのとは異なり、水戸学は地名で表記される。本稿は、水戸学が単に観念的な言説に根拠するのではなく、鹿島神宮を一宮に戴く「日域之東首たる常陸国」という空間において初めて成立し得た、まさに「常州水府の学」と言うべき地域的固有性に基づく思想であったことを明らかにした。このことはナショナリズムとの関わりで論じられがちな水戸学をローカリズムの立場から論ずるものでもある。
桐原健真「世界的眼孔・松陰と小楠の国際社会認識――近代国家間システムを超越する思想」 単著 2009年11月 『別冊・環(17):横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者』藤原書店、170~174頁(依頼論文) 横井小楠と吉田松陰は、はじめはともに鎖国を主張していたが、やがて両者とも鎖国主義を放棄するに至る。しかしその理由は同じではなく、小楠が普遍主義的な立場から世界万国との交流を説いたのに対し、松陰は、日本の固有性を確立し、これを守るために「航海雄略」を唱えた。その後の歴史の流れは、日本の独立という形での固有性の追求へと進んだが、21世紀の今日においては、小楠の普遍主義に可能性を見出すことが出来るかもしれない。
桐原健真「超脱の思想――小楠・松陰そして龍馬」 単著 2010年 2月 岩下哲典・小美濃清明編『龍馬の世界認識』藤原書店、95~114頁(共同論文集) 横井小楠・吉田松陰・坂本龍馬の三人の幕末人を取り上げ、その他者との共同性確立の思想を論じた。他者を思いやる感情という普遍的な本性を確信した小楠、西洋列強を前に自己保存の本能を全面肯定し、一国と一身の独立を図った松陰――彼らは共に極端であり、現実の人間の持つ多様性への理解を欠いていた。町人郷士という生れながらに境界人であった龍馬は、人間の多様性を認め、その違いを対話と共感によって乗り越えようとした。
桐原健真「19世紀東アジアと「帝国」日本」 単著 2010年 3月 『京都産業大学世界問題研究所紀要』25号、116~128頁(依頼論文) 日本を始めとする7つの「帝国」で世界を叙述する「七帝国」言説は、会沢正志斎の『新論』をきっかけに流布した。本稿は、この「七帝国」言説の淵源が、大黒屋光太夫の漂流譚である『北槎聞略』であることを明らかにした。特に「帝国」日本の出身であるため、「王国」出身者以上にロシアで厚遇を受けたという光太夫の発言は、「帝国」という存在が、国際的にいかなる地位を占めるものかを、日本知識人に強く印象づけたのである。
桐原健真「河口慧海――求法の道の終着点」 単著 2010年 4月 小川原正道編『近代日本の仏教者』慶應義塾大学出版会、245~275頁(共同論文集) 「日本仏教=最後で最高の大乗仏教」という図式は、近代日本の仏教者が創ったナショナリスティックな言説であった。河口慧海も大乗仏教としての「日本仏教」の無謬性を信じ、大乗非仏説論を反駁するため仏教原典を求め、二度の入蔵を果たす。だがその収集した梵蔵仏典の研究から漢訳仏典の誤謬を発見した彼は、これに立脚した「日本仏教」そのものを否定するに至る。それはまさに大乗仏教を求める彼の菩提心に発するものであった。
桐原健真「「帝国」の思想」 単著 2010年 6月 吉田忠編『19世紀東アジアにおける国際秩序観の比較研究』財団法人国際高等研究所、111~126頁(依頼論文) 蘭学者によって作られた「帝国」ということばが、蘭学者以外の近世日本の知識人いかに受容され、そして彼らの自己認識を形成していったかを、後期水戸学の大成者である会沢正志斎の思想的展開を中心に取り扱うことで明らかにしていった論文。
桐原健真「幕末維新期尊攘論における国際社会認識の転回――「帝国」言説をめぐって」 単著 2011年 1月 韓日文化交流基金・東北亜歴史財団編『1910년-그 이전 100년:한국과 일본의 서양문명수용(1910年-その以前の100年:韓国と日本の西洋文明受容)』、ソウル・景仁文化社、3~53頁、韓国語訳:3~28頁(共同論文集) 日韓併合100年を課題として開催されたシンポジウムでの発表をもとにした論文。日本が帝国であるという「帝国日本」言説が、いかに日本知識人の国際社会認識を大きく規定したかを明らかにし、またこの「帝国」という近代漢語が、近代東アジアに流布すると、みずからの独立性を担保することばとして、「帝国」やその対語としての「民国」といった語を国号に用いる国々が増えていったことの意味を検討した。
佐藤勢紀子・末松和子・曽根原理・桐原健真・上原聡・福島悦子・虫明美喜・押谷祐子「共通教育課程における「国際共修ゼミ」の開設:留学生クラスとの合同による多文化理解教育の試み」 共著 2011年 3月 『東北大学高等教育開発推進センター紀要』6号(紀要) 東北大学の共通教育課程において、2009年に新設した「国際共修ゼミ」に関する理念とその成果に関する報告と分析をおこなった論文。本ゼミは、留学生と日本人学生の共修という形を取ることで、学びの中から異文化理解の方法を会得することを目指すものであり、みずからの出身の国や地域に関する文化的・社会的特性に気付く機会を与えることができた。桐原は「近代日本の歴史と文化」を担当しており、現在継続開講中である。
桐原健真「「第三の開国」とはなにか? :戦後日本における自他認識の転回(1945~1980)」 単著 2011年 3月 『文化』74巻3号、1~20頁(査読論文) 「我々は第三の開国期にある」――この掛け声のもとで、20世紀後半の日本の政治家・企業家・知識人の多くが、日本改革のためのプランを提唱してきた。しかしながら、この「第三の開国」の意味するところは、時代によって異なっている。この「第三の開国」に関しての言説の変化は、日本人における自他認識の転回を示しているのであり、本稿では戦後直後の和辻哲郎や家永三郎らの発言をはじめ、新聞・雑誌などにおける開国言説を検討してその変遷を論じた。
桐原健真「会沢正志斎『新論』一八二五(文政八)年」 単著 2014年 2月 岩波講座『日本の思想』3巻 会沢正志斎『新論』の解説。これまで『新論』は、思想の継受すなわち「いかに読まれたか」ということを中心に研究が進められてきた。たしかにそれが多くの成果をもたらしたことは確かである。しかしここで、明治国家におけるイデオロギーの一翼を担った著作という評価を括弧にくくって、――「天皇制国家との対決」という前提をいったん留保して――近世日本の知識人が、いかに世界を認識し、そしてみずからの思想と行動とを形作っていったのかを見るという、いわば「普通の読み方」をすべきことを説く。
桐原健真「弘道館とその祭神:会沢正志斎の神道思想」 単著 2014年 2月 佐々木寛司編『近代日本の地域史的展開:政治・文化・経済』岩田書院、2014年 水戸藩藩校弘道館には、孔子廟とともに鹿島社があり、それは水戸学の神儒一致思想に基づくものである。しかしこれらの祭神選定には多くの紆余曲折があり、そこには天皇神奉斎を強く希望する藩主斉昭の存在があった。側近たちが強く反対するなか、彼は「弘道館記」撰述直前まで、その主張を繰り返したのである。この祭神論争は、会沢正志斎による「文武の神」としての鹿島神奉斎という形で終結を迎える。それは常陸国一宮である鹿島神宮の神を祀ることで、水戸藩が――観念の上ではあれ――「常陸国領主」であることを宣言するものであった。水戸藩は、尾張・紀伊両家に対するコンプレックスを抱えてきた。後期水戸学は、こうしたみずからのアイデンティティの追求を大きな動因としたものであり、この点で、水戸あるいは常陸国という歴史的・地理的環境を背景にしたイデオロギーであった。後期水戸学は、あくまで「東藩・水府の学」として成立したのであり、「〈常陸国領主〉水戸徳川家」を夢見た会沢・東湖そして斉昭たちにとって、「明治維新」なるものは、全く遠いところにあったのである。(15~38頁)
桐原健真「近代日本における魂のゆくえ:戦時歌謡をてがかりに」 単著 2014年 3月 『金城日本語日本文化』『金城日本語日本文化』90号、2014年、1~12頁(査読無し) 日本語日本文化学会講演会(2013年11月20日)で行った講演「近代日本における魂のゆくえ:「九段の母」を手がかりに」(名古屋市・金城学院大学)の活字化。戦時歌謡から見た来世表象の変容を通して、近代日本における死生観の様相について検討した。
桐原健真「「鎖国日本」言説と永久開国論を問い直す」 単著 2015年 3月 奈良県『日本と東アジアの未来を考える」2巻、奈良県、2015年、63~88頁(査読無し) 19世紀初頭、「鎖国」という言葉が誕生した。その対概念である「開国」は、明治初年に「開化」のイメージのもと成立する。一般に「鎖国=破滅、開国=正当」意識の中で、先の敗戦後の復興・民主化は「第二の開国」と歓迎された。「第三の開国」は、50年代半ばの米国追従の戦後体制批判に始まり、以後、日本(人)論との結合・日本の文化的閉鎖性への批判・経済大国の義務など「外圧―自主、親米―疎米」を二軸として意味内容を変質させたし、現在でも「開国=善」と認識されるに至っている。「永久開国論」とでも言うべき呪縛から日本は抜け出せないでいる。
桐原健真「「ホスピタル」はいかに「病院」となったか」 単著 2015年 4月 竹之内裕文ほか編『喪失とともに生きる:対話する死生学』ポラーノ出版、2016年、160~166頁 現代の日本社会では、病院死が当然のように考えられている。しかしながら、病院がそのような死生を司る殿堂として認識されるようになるには、長い歴史的背景があった。日本における医学上の救済が肉体的側面に集中しがちで、心性的あるいは霊性的な救済についての軽視がみられる。本稿では、こうした傾向の歴史的・文化的背景が、近世後期の切支丹禁制下における西洋科学の受容に起因するものであることを明らかにし、さらに現代の病院の取るべき可能性について示した。160~166頁
桐原健真「Calm and Storm in the Pacific: International Aid and Trans-Pacific Relations 1900-1931」 単著 2015年10月 edited by Martin Collcutt, Tao Demin, Jenine Heaton. ”Trans-Pacific Relations in the Late 19th and Early 20th Centuries: Cultural, Commerce, and Religion.” Suita: Society for Cultural Interaction in East Asia 20世紀に入ると、日米関係は移民問題を中心に急速に悪化していく。この危機的状況を解消しようと努めたのが、「民間外交」の主唱者である渋沢栄一であった。本稿は、サンフランシスコ大地震(1906)と関東大震災(1923)という大災害に際して、両国がいかなる人道援助を行ったのかということを、たんにヒューマニズムの次元ではなく、外交手法という視点から論じた。これらの試みは現代の日本外交にも重要な示唆を与えてくれるものである。pp.241-256.
桐原健真「吉田松陰の視点:攘夷とは何か」 単著 2016年 3月 間部詮勝シンポジウム『安政の大獄の真実:幕末史における再評価』鯖江市、2016年、2-14頁 「尊王攘夷」とは「尊王」と「攘夷」という二つの熟語を接合した造語である。このことばが中国古典にほとんど見られない理由は、その主語が各々本質的に異なっているからであり、そうした主語の齟齬をあえて接合させたところに、この「尊王攘夷」ということばの魔力は潜んでいるのである。2-14頁。
桐原健真「「帝国」言説と幕末日本」 単著 2016年 9月 明治維新史学会編、講座明治維新10『明治維新と思想・社会』2016年、57-86頁 本稿の目的は、「帝国」ということば、そして日本を「帝国」とする言説が、日本知識人によっていかに形成され、変容されていったのかを明らかにすることである。蘭学者・儒学者そして水戸学者や尊攘志士といった、近世日本知識人における主要なカテゴリにおいて、「帝国」ということばがいかに機能したかを論じた。(57-86頁)
The Birth of a Myth: Civil War and Sacrifice in Early Meiji Japan(神話の誕生:初期明治日本における内戦と犠牲) 単著 2016年10月 『Anthropoetics』22巻1号、2016年10月 The Meiji restoration did not prove to be successful without sparking a huge civil war, the likes of which Japan had not seen in four hundred years. This was called the Boshin Civil War, fought between the pro-Shogunate army and the New-government army. After this civil war, with a front extending over the eastern part of Japan, the New-government enshrined more than three thousand fallen soldiers as the tutelary deities of the nation in Tokyo Shōkonsha, which is now the controversial Yasukuni Shrine. It can be said that they were sacrifices to establish the new régime of the so called "Meiji State." However, there was a stringent rule to sort the souls of dead soldiers, since, as with Valhalla, not all fallen soldiers were enshrined in this shrine. This was the birth of the myth of modern Japan. This paper will describe the construction of this myth by throwing light on the relation between enshrining and using dead soldiers as sacrifices. http://www.anthropoetics.ucla.edu/ap2201/
桐原健真「服部之総――「生得の因縁」と戦後親鸞論の出発点」 単著 2016年11月 オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』法藏館、2016年、49~75頁 服部之総(一九〇一―五六)という人物は、一般には明治維新史研究者、とりわけ戦前の日本資本主義論争における講座派の中心的人物として知られる。宗教を「民衆の阿片」と断ずるような自他共に認めるマルキストであった彼は、しかし、その晩年――といってもまだ四十代後半であったが――に至って、親鸞・蓮如をはじめとした浄土真宗論を著していく。それはかつての論争相手であった三木清と真宗寺院の長子という彼自身の出自に導かれたものであった。49~75頁。
桐原健真「『論語講義』再考:近代論語のなかの渋沢栄一」 単著 2017年 2月 見城悌治ほか編『渋沢栄一は漢学とどう関わったか:「論語と算盤」が出会う東アジアの近代』ミネルヴァ書房、2017年02月 渋沢栄一における儒学思想、とりわけその『論語』の理解について議論される際、しばしば二松学舎から刊行された『論語講義』(全2巻、1925年)が用いられてきた。しかし近年では、同書が実際には筆述者である二松学舎教授の尾立維考による意図的な編集が加えられた、いわば編者自身の著述に近いものであることが、笹倉一広氏の書誌学的検討から指摘されている。この点で、『論語講義』をもって渋沢思想を語ることが、学問的にきわめて危険であることは明かであろう。しかし、『論語』全編を講釈する『論語講義』が、実業家として知られる渋沢の著作として世に問われたことは、これ以降の日本社会における『論語』への認識を大きく規定するものともなったと考えられる。本発表は、同時代の非アカデミズムの分野における『論語』言説を概観することを通して、『論語講義』の文化史的意味を問うことを目的とするものである。(38-60頁)
桐原健真「アジアはどこにあるのか―言説史的考察―」 単著 2017年 3月 ユーラシア研究センター編『奈良に蒔かれた言葉と思想。』奈良県立大学 「アジア」ということばは、アジアによる自称ではなく、ヨーロッパによって与えられた地理学上の呼称である。このことは、アジアがみずからを「アジア」と認識するには、それ以外の他者によって自己が規定される必要があったことを意味している。ある対象を「アジア」として認識するとき、そこには同時に、ヨーロッパという「他者」からのまなざしが、拭いがたく含まれている。したがって、こうしたヨーロッパによって与えられた呼称であるということ自体に反発を覚え、このことばを拒否した人物も、幕末日本には存在した。本稿では、この他者としての「アジア」認識を論じている。33-38頁。
桐原健真「「尊王攘夷」とはなにか:水戸学の思想と行動」 単著 2017年10月 茨城県歴史館編『志士のかたち』茨城県歴史館 「尊王攘夷」ということばが、水戸を始めとする志士たちの主体性を引き出し、大きな政治運動を導いたことは確かである。しかし、彼らが「尊王攘夷」を絶対的善として押し立てることで、それまで許されてこなかった政治参画を果たしたことは、一方で「攘夷」の実践がそのまま「尊王」であるという論理の逆転をももたらすことともなった。そしてそれが最終的に「尊王」に対する思考停止と「攘夷」の暴走に陥ったことは、その後の歴史にも明らかなところである。▽戊午の密勅をめぐる水戸藩尊攘派内の鎮激対立、あるいは桜田門外の変を始めとした幕閣襲撃による「尊王攘夷」の強要、さらには東禅寺事件のような「攘夷」の自力実行――これらは、「学問」と「政事」との一致を掲げたイデオロギー先行による政治実践の一つの終着点であった。こうした暴走の背景には、「学問」そのものの再検討が十分になされにくい環境が、水戸藩内に存在していたことも無関係ではあるまい。▽こうして自己目的化した「尊王攘夷」は、しかしやがて志士たちの行動そのものが「尊王」ではないという「叡慮」を突き付けられ自壊に追い込まれる。いわゆる八月一八日の政変(一八六三)である。悲劇的な結末に終った翌年の天狗党の乱や禁門の変は、「尊王攘夷」を掲げ、政治実践にその身を投じた彼らの最期の抵抗であった。▽「史」から始まった水戸学は、本来、主語もベクトルも異なる「尊王」と「攘夷」とを結合させた「尊王攘夷」ということばを造ることで、それまで厳しく制限されていた政治参画への「志」を肯定する論理を生み出した。だが、現実政治における失地や攘夷戦争の敗北を経て、彼らの多くは政治的退場か思想的転向かの選択を迫られることとなる。かくてこれ以降の政局は、「尊王攘夷」を目的ではなく手段ととらえる人々――ときに天皇を「玉」とすら呼ぶことのできるリアリストたち――によって動かされていったのである。1-5頁。
桐原健真「会沢正志斎と「水戸学」の系譜:幕末から戦後まで」 単著 2017年10月 近代茨城地域史研究会編『近世近代移行期の歴史意識・思想・由緒』岩田書院、2017年、147~172頁 会沢正志斎は、尊攘派の鎮激分裂や鎖国論の放棄(「時務策」1862〈文久2〉)といった晩年の言動のために、尊攘激派を「正論派」と呼ぶような文脈においては語り難い存在となった。しかし水戸行幸啓(1890)での祭粢料下賜や翌年の贈位は、会沢に一定の名誉回復をもたらした。だが東湖や激派の精神的な継承者を自任する水戸人士の多くにとって、会沢は明らかに傍流であった。しかしこうした評価は、1920年代に大きく変化することとなる。すなわち旧来の国民道徳論的な水戸学とは異なる「新水戸学」が模索されるなか、「時務策」に代表される積極的な国家改造論者として会沢が想起され、そのイメージは「新しい国体論」が唱えられる1930年代にも引き継がれた。そして1940年代には、『新論』の著者である会沢は、高度国防国家の建設のためのイデオローグとして描かれ、ついに「水戸学の大成者」と称されるに至る。かくて確立した「維新の経典」の著者にして「水戸学の大成者」としての会沢像は、戦後の後期水戸学研究の方向性をも規定した。すなわち、敗戦を経て、天皇制国家の支配原理の分析が求められた結果、その一つの源泉と考えられた会沢思想の研究が進められたが、その際に中心となったのは『新論』であり、彼の思想全体が検討されることは少なかったのである。会沢は、その時代で様々に想起されてきた。だがそれは多くの場合、明治国家という結果から歴史を遡及しようとするものであった。それゆえ、国民国家の形成を無条件に結論とせず、その生きた時代や環境をふまえて会沢を再検討することが、いま求められている。
桐原健真「宗教は一に帰すか:帰一協会の挑戦とその意義」 単著 2018年 1月 見城悌治編『帰一協会の挑戦と渋沢栄一』ミネルヴァ書房、2018年、13-33頁 近世後期にはじまる日本知識人の宗教を忌避する傾向は、幕末維新を経て、明治に入るといっそう強くなっていった。たとえば、明六社創設(1873)に携わり、また文部官僚でもあった西村茂樹(1828~1902)は、『日本道徳論』(1887)において、新時代における道徳の基礎を「世外教」(宗教)ではなく、「世教」(現世主義)をもって宛てるべきだと説いている。啓蒙思想家でもあった西村のような人物にとって、宗教は「下等社会の信ずる所」でしかなく、新しい道徳の基礎にはふさわしいものとは考えられなかった。彼は、「人類以上の神異なる物」 を拒否したのである。渋沢栄一は、まさにこうした近世後期以降の日本知識人のうちに展開した現世主義・反宗教的態度の系譜の上において、みずからの思想形成を遂げた人物であった。それゆえに彼は、並み居る宗教者を前にしてもなお、みずからが「無宗教」であることを宣言することができたのである。渋沢にとっての「安心立命」が、西村が言うところの「世教」としての「孔子の教」であったことはよく知られており、彼が「論語信者」 などと言われた所以でもある。こうした宗教から遠い人物が、やはり宗教から遠くなった近代日本という時代において、宗教の帰一を企図したという事実は、これを聞くものに大きな疑問を与えるものであろう。本章は、渋沢によって始められた帰一協会という挑戦の意味とその思想的意義について検討するものである。
桐原健真「「天下の奇人」との邂逅:吉田松陰と谷三山」 単著 2018年 3月 谷三山研究会編『谷三山、師の師たる人。Ⅱ』奈良県立大学ユーラシア研究センター 本稿は、大和という豊かな学問世界を松陰というマレビトがいかに認識したのかを主題としたものである。▽1851年末に、脱藩し東北を遊歴した吉田松陰(1830~1859)は、翌年、長州藩から士籍剝奪処分を受ける。しかしこれと同時に十ヶ年の諸国遊学許可を得た彼は、1853年正月にふたたび江戸を目指して東へと下っていった。瀬戸内海から大坂に上陸した彼は、長州藩邸のある京都を避けたのか、奈良や伊勢を経由して東海道に出ている。そしてこの旅路において、彼は大和やその周辺で活躍する知識人たちと出会い、大きく刺激を受けた。それが、大和五條の森田節斎であり、また八木の谷三山であった。▽節斎の学問に強く惹かれ、その私塾に長く滞在した松陰だったが、やがて大和を中心に広がる学問空間のなかに巻き込まれていく。当時の大和では、伊勢国津藩校有造館の督学(校長)であった斎藤拙堂(1797~1865)が著した『海外異伝』(1850、山田長政・浜田弥兵衛・鄭成功の小伝)をめぐる議論が展開していた。拙堂に批判的で、和文で反駁書を執筆していた節斎は、同様に批判書(漢文)をまとめていた三山と意見交換するために松陰を派遣する。いわば松陰は「遣い」として三山に面会したのだが、しかしそこで彼は三山を「天下の奇人」と高く評価し、その学識に深く敬服したのであった。▽こうした濃密な学問世界を経験したことは、兵学者たる松陰を大きく動揺させた。彼は、一時、みずからの家学である兵学を捨てて、文学の道を歩むことすら考えるようになっていたのである。そうした鬱々とした気持ちを抱きつつ江戸に入った松陰を待ち受けていたのが、浦賀沖へのペリー米国艦隊の来航であった。これを境として、彼のなかには、もはや兵学か文学かといった迷いは消えていく。そしてまた、かつて大和路においてあれほど敬仰した人々に対する評価も少なからず変わることとなったのである。▽なお本稿は「谷三山没後150年記念フォーラム」(2017年12月3日)での講演内容を活字化したものとなる。26-35頁。
孔子の変貌──儒学と明治日本 単著 2018年11月 岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新:交錯する宗教世界』法藏館 幕末に高らかに唱えられた神儒一致は、やがて明治初年には密やかに神儒分の離がなされる。こうした背景とその意味を論じた。46-50頁。
桐原健真「はじめに」 単著 2018年11月 岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新:交錯する宗教世界』法藏館、2018年11月 本書の目的と概要について以下のように述べた。すなわち、進歩史観に対する反省を念頭に置きつつ、幕末維新期に断絶性だけではなく連続性をも見出そうという本書の視座は、したがって近世の知的営為のうちに近代の萌芽を見出すことを目的とするようなものではない。本書は、そうした近代化論的な視座に立つのではなく、むしろ近代といわれている時代のなかに、近世的な世界観や思惟様式がいかに継承あるいは展開されていったのかを、思想・宗教の面から問うものである。3-19頁。
桐原健真「排耶と攘夷――幕末宗教思想における後期水戸学の位相」 単著 2018年11月 岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新:交錯する宗教世界』法藏館 近世日本では、排耶論が単純にキリスト教批判を意味するのではなく、むしろ体制秩序に混乱者を排除するための体制イデオロギーとして機能したとしばしば指摘される。本稿は、こうした理解に基づきつつ、後期水戸学(以下水戸学)における排耶論の具体的内容を明らかにしようとするものである。水戸学における攘夷論の内実は排耶論であった。テクノロジーをめぐる物理的な戦場の攘夷が現実的に不可能であることが明らかになるにしたがって、徳川斉昭や会沢正志斎らの水戸学者たちはイデオロギーをめぐる観念的な紙上の攘夷へと水戸学が傾斜していくこととなる。もとより幕末志士は、一八六〇年代にはこうした観念的なイデオロギー闘争を放棄するが、鵜飼徹定のような仏者として排耶をとなえるものたちによって継承されていったのである。167-191頁。
The Birth and Growth of Teikoku Nihon in Bakumatsu Japan : A Discursive Approach 単著 2019年 3月 『金城日本語日本文化』95号 "Teikoku" (帝国) is not classical Chinese word but was coined by Japanese Dutch scholar in the end of eighteenth century. The purpose of this paper is to show how this term was created and recognized by Japanese intellectuals. In other words, this is a study of the Teikoku as discours in the nineteenth century Japan. (pp.1-14)
桐原健真「国体論の形成とその行方」 単著 2020年 9月 近代日本宗教史1『維新の衝撃:幕末~明治前期』春秋社、2020年 「国体」を象徴する教育勅語や御真影といったものは、戦前の日本において、神聖性をまとわせられつつ取り扱われた。学校火災に際して、校長がしばしばみずからの生命を投げ打って教育勅語の謄本や御真影を「奉護」したのは、まさにそうした神聖性のためであり、またそれゆえ、これらの痛ましい事件は、ときに「美談」としてすら語られたのである。その一方で、この神聖なる勅語謄本や御真影を粗略に扱うことは、極めて重い罪と認識され、しばしば激しい社会的制裁を加えられることとなった。丸山真男が指摘したように、戦前の日本では、こうした勅語謄本や御真影をめぐる「おそるべき呪縛力」が存在していた。その「力」は、単に「精神的代用品」と切り捨てるには、あまりにも広く強かったようにみえる。こうした「魔術的な力」を有した「国体」なるものがいかに生み出され、どのように認識されたのかを、その誕生の時期を中心に検討した。71-99頁。
桐原健真「金城学院大学「学校経営と学校図書館」(3年生対象)授業実践報告」 単著 2020年10月 大嶋えり子・小泉勇人・茂木謙之介編『遠隔でつくる人文社会学知:2020 年前期の授業実践報告』雷音学術出版、2020年 「1.シラバス段階での講義の目的と概要、講義内容、成績評価の方法」「2.大学から要請された遠隔のルールとそれに基づいて変更し実施した授業内容」「3.学生の反応と今後の課題・可能性」の3節構成。第2節については、筆者はルールの策定側にも属していたので、その知見も含めて記した。70頁(査読あり)
桐原健真「近世日本の霊魂と自然」 単著 2020年11月 日本宗教史5『日本宗教の信仰世界』吉川弘文館、2020年 本稿は、近世日本の知識人における霊魂観を、自然観との関わりから概観したものである。本稿では、当該期の霊魂観における潮流を二つにわけて論じた。すなわち、一つは朱子学にはじまり、林羅山から荻生徂徠、そして二宮尊徳に至る有鬼論の系譜、もう一つは伊藤仁斎から山片蟠桃、そして吉田松陰に至る無鬼論の系譜である。とくに無鬼論とは無神論の一つのバリエーションであり、それが近世日本においていかに成立し、展開したかについて検討した。118~143頁。
桐原健真「1 帝国日本:東と西の論理」「2 平田篤胤(1776~1843):「復古」の創始者」「3 後期水戸学:尊王から攘夷への跳躍」「4 吉田松陰(1830~59):自他認識の転回」「5 横井小楠(1809~69):「割拠見」を超えた思想家」「6 大国隆正(1792~1871):「神議」と「学統」」 単著 2021年 2月 植村和秀ほか編『ハンドブック近代日本政治思想史』ミネルヴァ書房、2021年 植村和秀ほか編『ハンドブック近代日本政治思想史』(ミネルヴァ書房、2021年)における、幕末維新期政治思想関係項目を執筆した。4~19頁。
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学会発表

題目/演目名等 発表年月 発表学会名等 概要
桐原健真「吉田松陰と後期水戸学の距離――「安政三年八月」をめぐって」 2000年10月 日本思想史学会2000年度大会、仙台市・東北大学 国学と水戸学とは、ともに幕末思想史における起爆剤であった。しかし、多くの研究では、王政復古・明治維新を終着点とする尊攘思想のバリエーションに過ぎないと見做されがちである。本稿では、松陰の読書記録の分析から、彼の尊攘思想が水戸学的大義名分論から国学的尊王論へと大きくシフトし、これによって幕藩体制そのものを批判する理論的基礎を手に入れることができたことを、研究史上はじめて明らかにした。
桐原健真「人文系データベース利用の諸問題――吉田松陰『野山獄読書記』のデータベース化から」 2001年10月 東北史学会2001年度大会、米沢市・米沢女子短期大学 ロジャ・シャルチェ氏らにはじまる「読書の社会史」への試みは、日本における文化史研究にも大きな影響を与えており、本稿もまたその一つである。多くの研究が蔵書の系統的分析であるのに対し、本発表は、獄中・幽囚中の松陰が読破した書籍の基礎的データ分析を行った点に特筆すべき点がある。
桐原健真「吉田松陰における天皇観――藩主と天皇をめぐって」 2001年10月 日本思想史学会2001年度大会、吹田市・関西大学 吉田松陰が尊王攘夷を唱えた人物であったということに異論はないであろう。しかしその内実がいかなるものであったかという点に関しては、さまざまな論議がある。松陰の天皇観を探ることは、封建的分邦としての近世国家から国民的統一態としての天皇制国家へと転換していく過程における思想の転回を明らかにするものであると言えるであろう。本発表では「藩主」というあらたな軸を提示し、松陰の天皇観、さらには親政論を検討した。
桐原健真「幕末期における普遍観念の相剋――吉田松陰を中心に」 2002年10月 日本思想史学会2002年度大会、仙台市・東北大学 W. マーティン漢訳『万国公法』が登場する19世紀中葉以前の東アジアには、国家間の対等観念は存在しなかったと言われる。しかし、18世紀末以降の蘭学者をはじめとした日本知識人は、ヨーロッパの文物の受容を通して、「帝国」「王国」「独立国」「属国」といった近代的な国家概念を受容しつつあった。本発表は、日本を「帝国」と規定する松陰が、これらの概念を用いて、いかに国家間の対等を描き出そうとしたかを論じたものである。
桐原健真「「他者」としてのアジア――吉田松陰を中心に」 2002年11月 明治維新史学会2002年秋季大会、西宮市・関西学院大学 「アジア」とはヨーロッパという他者によって与えられた呼称である。それゆえ幕末日本の知識人たちは、必ずしもみずからをアジアの一部としては認識しておらず、時には会沢正志斎のようにその呼称自体を拒否するものも存在した。この点で、幕末におけるアジア認識には、近代におけるそれとは異なった他者性が含まれていた。本発表では、西洋―日本―アジアという三極構造からなる幕末の世界認識について吉田松陰を中心に論じた。
桐原健真「松陰と白旗――『国際社会』認識の転回」 2003年10月 2003年度日本思想史学会「パネルセッション 吉田松陰研究の現在――開国前後の対外観を中心に」、つくば市・筑波大学 桐原健真「「外夷の法」――吉田松陰と白旗」(『日本思想史研究』40号、2008.3、82~98頁)の基となった発表。
桐原健真「幕末維新期における西洋社会事業思想の受容」 2004年 9月 「2004年渋沢国際儒教研究セミナー 比較視野のなかの社会公益事業」、港区・国際文化会館(招待講演) 桐原健真「「病院」の思想――幕末維新期における西洋社会事業観念の展開」(陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編著『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、2009.3、117~136頁)の基となった発表。
桐原健真「吉田松陰とアジア――「雄略」論の転回」 2004年10月 日本思想史学会大会2004年大会、京都市・京都大学 桐原健真『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会、2009年)の「第一部第四章 松陰とアジア――「雄略」論の展開」の元となった発表。
桐原健真「幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に」 2004年10月 日本倫理学会大会2004年大会、八王子市・中央大学 幕末志士の吉田松陰と朱子学者の山県太華の国体論争を論じたもの。朱子学的な「天地間一理」のテーゼに基づき、四海同胞を説く太華に対し、松陰は固有性としての日本の「国体」を第一に据え、その上で同様に固有性を有した他者(他国)との対等な相互承認を主張した。彼は、地上における普遍(国際社会)の実現には、その基礎となる自己の確立(国家の独立)が必須であり、抽象的な普遍性に依拠することはできないと考えていたのである。
桐原健真「水戸学における会沢正志斎の位相――国体論を中心に」 2004年10月 明治維新史学会2004年秋季大会、大阪市・大阪歴史博物館 会沢正志斎の『新論』はたんに水戸学という学派の一著作に留まることなく、日本を語るための言説を用意した点で、吉田松陰を始めとした幕末志士たちの出発点の一つとなった。そしてこれら志士たちは、『新論』を著者の意図をはるかに越えて、「国家の大意」を語る経世論・政策論として発展的に読み替えていくことで、新たな日本の姿を構想したのである。
桐原健真「「環境」へのまなざし――日本における自然観の連続と非連続」 2005年 5月 「2005年渋沢国際儒教研究セミナー 中日近代企業家の文化事業と社会事業――渋沢栄一と張謇の比較研究」、中華人民共和国南通市・文峰飯店(招待講演) 桐原健真「「環境」へのまなざし――日本における自然観の連続と非連続」(『中日近代企業家的人文関係与社会貢献――渋沢栄一和張謇的比較研究国際会議論文集』南通・張謇研究中心、2005.5、217~224頁)の基となった発表。
桐原健真 ‘Calm and Storm in the Pacific: International Aid and Trans-Pacific Relations 1900-1931’ 2006年 9月 Trans-Pacific Relations: East Asia and the United States in the 19th and Early 20th Centuries、アメリカ合衆国ニュージャージー州・プリンストン大学(招待講演)(邦題:「太平洋の凪と嵐――国際人道援助と太平洋両岸関係 1900-1931」) 20世紀に入ると、日米関係は移民問題を中心に急速に悪化していく。この危機的状況を解消しようと努めたのが、「民間外交」の主唱者である渋沢栄一であった。本稿は、サンフランシスコ大地震(1906)と関東大震災(1923)という大災害に際して、両国がいかなる人道援助を行ったのかということを、たんにヒューマニズムの次元ではなく、外交手法という視点から論じた。これらの試みは現代の日本外交にも重要な示唆を与えてくれるものである。
桐原健真「「帝国」の成立――幕末維新期における華夷意識の転回」 2006年 9月 国際高等研究所主催「19世紀東アジアの国際秩序観の比較研究」・共通テーマ:「華夷意識・華夷秩序」、木津川市・国際高等研究所、(招待講演) 桐原健真「『新論』的世界観の構造とその思想史的背景」(『茨城県史研究』91号、2007.3、68~84頁)の基となった発表。
桐原健真「魂を留める――吉田松陰の場合」 2006年 9月 日本宗教学会2006年度大会「パネル:どう死ぬか――現場から考える「宗教」研究」、仙台・東北大学 桐原健真「死而不朽――吉田松陰における死と生」(『季刊 日本思想史』73号(「霊魂観の変遷」特集号)、2008.10、55~74頁)の基となった発表。
桐原健真 ‘The Miniature of a New World As a Model of Modernization’ 2006年11月 張謇研究センター主催「第4回 張謇国際学術研討会」、中華人民共和国南通市・文峰飯店(招待講演) 桐原健真(葛睿訳)「作為近代化的模式――新新世界之雛形」(邦題:近代化の範型としての「一新新世界之雛型」、第四届張謇国際学術研討会組委会編『張謇与近代中国社会』南京大学出版会、2007.10、173~179頁)の基となった発表。
桐原健真「「帝国」の誕生――19世紀日本における国際社会認識」 2007年 3月 台湾中央研究院・人文社会科学研究中心・亜太区域研究専題中心主催「東亜世界中日本社会的特徴国際研討会」、中華民国台北市・中央研究院(招待講演) 桐原健真「「帝国」の誕生――19世紀日本における国際社会認識」(黄自進編『東亜世界中的日本政治社会特徴』台北・中央研究院人文社会科学研究中心亜太区域研究専題中心、2008.8、139~164頁)の基となった発表。
桐原健真「「漢土人の翹楚」――吉田松陰と魏源」 2007年 8月 国際高等研究所主催「19世紀東アジアの国際秩序観の比較研究」・共通テーマ:「華夷意識・華夷秩序」、木津川市・国際高等研究所(招待講演) 桐原健真「「外夷の法」――吉田松陰と白旗」(『日本思想史研究』40号、2008.3、82~98頁)の一部となった発表。
桐原健真「「天下」と「五世界」――幕末期における自他認識の転回」 2007年 9月 全国横井小楠研究会2007年大会、練馬区・武蔵大学 欧米列強中心の国際社会は、独立主権国家が相互承認することによって成立していた。それは他方で弱肉強食を許容するものでもあった。しかし小楠は弱肉強食を前提とせず、国家における独立主権の主張を、「割拠見」ととらえ、国家主権内に閉じこもる「私」からこれを越えた「公」にこれからの日本のあるべき姿を求めた。それは、「咄合」から「公論」を導き出そうとした小楠の学問的態度に根拠付けられたものであったのである。
桐原健真「「帝国」日本の誕生――あらたな「帝国」研究の構築を目指して」 2007年10月 日本思想史学会大会2007年大会、長崎市・長崎大学 「帝国」という語が、蘭学者の翻訳語(keizerrijk)であることは余り知られていない。だがこの語が「皇帝―国王―公侯」といった階層秩序を有する漢字文化圏に投げ入れられたとき、「帝国―王国―公侯国」という新たな階層的国家間関係が描かれるようになる。かくて日本は自らが「帝国」であることを堅持し、朝鮮王国は大韓帝国を唱えるに至る。そこでは、伝統的な冊封の論理と西洋的な主権の論理という二つの思想が複雑に絡み合っていた。
桐原健真「直線と円環――吉田松陰の死生」 2007年10月 日本倫理学会2007年大会、新潟市・新潟大学 桐原健真「死而不朽――吉田松陰における死と生」(『季刊 日本思想史(「霊魂観の変遷」特集号)』73号、2008年、55~74頁)の元となった発表。
桐原健真「日本における「帝国」概念の受容」 2008年 6月 2008年度日本比較政治学会・分科会C「比較政治学としての政治思想史:日本の事例を中心に」、横浜市・慶應義塾大学 桐原健真「19世紀東アジアと「帝国」日本」(『京都産業大学世界問題研究所紀要』2010.03、116~128頁)の一部となった発表。
桐原健真「歴史学から倫理学へ――日本思想史の試み」 2008年10月 日本倫理学会第59回大会・ワークショップ2「日本思想から倫理学へ」、つくば市・筑波大学 かつて丸山真男は、日本における思想史の困難性を思想継承の不在に求めた。しかし、イデアが自己運動するような「伝統」への疑いのまなざしが現れてきている今日、一貫した「思想史」なるものの「客観性」には、やはり疑問を抱かざるを得ない。本発表では、思想史を、「われわれの思惟様式の形成・特質を歴史的に明らかにするもの」ととらえることで、現代に生きるものの倫理を論ずる基礎となる学と再定義すべきことを提唱した。
桐原健真「水戸学の世界像――会沢正志斎を中心に」 2008年10月 地方史研究協議会2008年度大会〈第59回〉「共通論題 茨城の歴史的環境と地域形成」、水戸市・常磐大学 桐原健真「「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に」(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、2009.10 、91~110頁)の基となった発表。
桐原健真「19世紀東アジアと「帝国」日本」 2008年11月 京都市・京都産業大学世界問題研究所(招待講演) 桐原健真「19世紀東アジアと「帝国」日本」(『京都産業大学世界問題研究所紀要』2010.03、116~128頁)の基となった発表。
桐原健真「尊王と攘夷――「水府の学」としての後期水戸学」 2009年 3月 東北大学・奈良女子大学合同研究会シンポジウム「日本の政治の形――王権と政治権力をめぐって」、奈良市・奈良女子大学 桐原健真「「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に」(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、2009.10 、91~110頁)の一部となった発表。
桐原健真「幕末における『帝国』」 2009年 6月 幕末史研究会、武蔵野市・武蔵野商工会館(招待講演) 桐原健真「「帝国」の思想」(吉田忠編『国際高等研究所報告書』2010年)の一部となった発表。
桐原健真「「帝国」日本から「大日本帝国」へ」 2009年 8月 「20世紀と日本」研究会、和歌山市・ホテルグランヴィア和歌山(招待講演) 桐原健真「「帝国」の思想」(吉田忠編『国際高等研究所報告書』2010年刊行予定)の一部となった発表。
桐原健真「「あこがれ」としての病院信仰」 2009年 9月 日本思想史学会2009年度大会「パネルセッション1 在宅ホスピスの現場における日本思想史研究の可能性~「病院死」を選択する日本人~」、仙台市・東北大学 病院死率80%を越える現代日本には、「病院信仰」が抜きがたく存在する。その背景には、「人間の死生は肉体的問題であり病院がこれを処理できる」という観念がある。本発表では、日本の近代医学が、精神性・霊性を学問的対象から排除し、肉体だけを取り扱う学問として自己規定するようになる過程を追った。そして、そこには18世紀中葉にはじまる現世主義・実証主義に基づいた不可知論の系譜が存在していたことを指摘した。
桐原健真「弘道館とその祭神―会沢神学の構造―」 2009年 9月 日本宗教学会2009年大会、京都市・京都大学 本発表は、後期水戸学の大成者である会沢正志斎が、藩校弘道館(1841年創建)の祭神に孔子に加えて鹿島神を据えた思想的背景について論じた。彼にとって、蝦夷征討の守護神たる鹿島神は、古代における尊王攘夷を体現した存在であり、また自藩では領有していない常陸一之宮である鹿島神宮の祭神を祀ることは、御三家の中で唯一一国領主ではない水戸藩を「常陸国国主」として観念的にであれ定位させるものとして認識されていたのである。
NPO法人・介護者応援ネットワークみやぎ「介護と看取りのしゃべり場」、仙台市・戦災復興記念館 2010年 5月 NPO法人・介護者応援ネットワークみやぎ「介護と看取りのしゃべり場」 近代日本において死生観がいかに変容したのかを、近世との変化をふまえて論じた。
桐原健真「The Quest for Mahayana: Kawaguchi Ekai and the Buddha’s “Golden Words”」 2010年 8月 XXth International Associate of History of Riligion: Quinquennial World Congress、カナダ・トロント市・トロント大学(一般) パネル:RETHINKING JAPANESE BUDDHISM: KAWAGUCHI EKAI AND MURAKAMI SENSHŌにおいて、河口慧海が二度にわたるチベット行を経て、それまで高く評価していた日本仏教を批判するに至るまでの思想形成過程を描き出した。ほかのパネリストは、Richard M. Jaffe, Hidetsugu Takayama, Orion Klautau。
桐原健真「世界観闘争としての真宗護法論」 2010年10月 日本思想史学会2010年大会・パネルセッション3「近代仏教と真宗の問題」、岡山市・岡山大学 仏教に対する批判は近世を通じて存在したが、幕末における国学者を中心とした排仏論は、それまでの儒学的な排仏論とは異なり、日本の固有性を強調し、「道」の普遍性それ自体を否定するものであった。こうした批判に対して主として護法論を展開したのが平田篤胤によって「神敵」と呼ばれた浄土真宗である。こうした幕末護法論は、国学と耶蘇教という二正面での世界観闘争の様相を呈していた。
桐原健真「他者としての「中国」研究――近代日本における学知の形成」 2010年11月 嶺南大学校中国学研究センター・東北大学大学院日本思想史研究室共同開催国際シンポジウム「東アジアの思想と対話:国境・テキスト・礼楽」、大韓民国慶山市・嶺南大学校(招待講演) パネルセッション「日本における中国研究の現況」における発表。近代日本における中国研究と近代以前の儒学・漢学との断絶について、近代学知の成立という視点から論じたもの。とくに、小牧昌業や本田成之らが「支那学者」としてみずからを定位して行く過程で、儒学経典が神聖性を喪失し、解釈の対象としてのテキストあるいは教養としての古典となっていった過程を概観した。
桐原健真「死して朽ちず:吉田松陰の死と生」 2011年 3月 財団法人東北多文化アカデミー・多文化講座「介護と看取りのセミナー」、仙台市・東北多文化アカデミー 吉田松陰における死生観の変容を通して、いかにこの生を考えるかを論じた。
桐原健真「護法・護国・夷狄」 2011年10月 日本思想史学会2011年度学術大会パネルセッション「幕末維新期の護法思想・再考」、豊島区・学習院大学 幕末における護法論は、「かの排仏の徒類の仏法を誹謗するは、すなはち天子・王侯を誹るの大罪」(竜温『総斥排仏弁』1865)といった表現に見られるように、仏教の有価値性の証明が、「俗権による崇敬」という外在的な論拠に基づくようになる。いわばそれは、己が信ずる教説における価値の源泉が、仏法そのものから王法へと逆立ちしているのであり、そこには仏法の超域的な普遍性に対する確信の後退を見ることができるのである。
桐原健真「連続と断絶―服部之総の「親鸞」」 2012年 9月 日本宗教学会第71回学術大会、伊勢市・皇學館大学 パネルセッション「戦後の日本仏教論―諸学説の再検討―」における発表。
桐原健真「弘道館祭神論争:会沢正志斎の神道思想」 2012年10月 日本思想史学会2012年度大会、松山市・愛媛大学 本発表は弘道館祭神論争における会沢の鹿島神奉斎論を通して、東藩水府の学として構成された会沢独自の神道思想について概観することを目的とする。それは、しばしば無前提に明治維新や近代天皇制国家のイデオロギー的源泉とされてしまう後期水戸学を、常陸国という地域的固有性を背景に成立したイデオロギーとして再構成する試みであり、後期水戸学を近世後期という思想空間の中に読み解くことに資するものとなろう。
桐原健真「The West as a Mirror: An Origin of the Ethnocentrism in the Nineteenth Century Japan」 2012年12月 “19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学 徳川時代後期の政治家や知識人は、この「帝国」という新奇な用語が、たんなる「Empire」という英単語の訳語ではなく、みずからの国の堂々たる称号であると思っていた。この論文の目的は、ウィリアムズが注意を払わなかったこの用語が、日本知識人によっていかに造られ、また認識されたのかを明らかにすることである。本発表は、いわば19世紀日本における「言説」としての「帝国」の研究である。
桐原健真「生命と自然:東日本大震災という経験を出発点として」 2012年12月 中華人民共和国・北京市・北京外国語大学日本学研究センター 東日本大震災後における日本人の自然観の変化について二宮尊徳の生命観を踏まえつつ論じた。
【シンポジウム】桐原健真「連続と断絶:水戸学と維新のあいだ」 2013年11月 人文学部地域史シンポジウム「明治維新と茨城の歴史」2013年11月16日、水戸市・茨城大学 今日の感覚からすると、戦前における会沢評価の低さはどうにも理解できないところがある。戦前の水戸学研究は、徳川光圀を一つ目のヤマとすると、斉昭と東湖の君臣ペアが二つ目のヤマとなって位置づけられるのに対して、戦後は、会沢一極集中となっていく。▼戦前において会沢の評判が芳しくなかった理由としては、その晩年の言動が考えられる。会沢開国論と呼ばれる「時務策」や、戊午密勅の返納論などが、会沢をしてその評価を低くならしめたのである。その意味で、会沢の思想を直接的無媒介に明治国家のイデオロギーと見做すことには、少しく留保が必要なのである。
【講演】桐原健真「近代日本における魂のゆくえ:「九段の母」を手がかりに」 2013年11月 名古屋市・金城学院大学、日本語日本文化学会講演会、2013年11月20日 戦時歌謡から見た来世表象の変容を通して、近代日本における死生観の様相について検討した。
桐原健真「神無き国の神殿としての病院」 2013年11月 神戸市・神戸学院大学・キャリアアップ講座看取りコース、2013年11月17日 「おすぴおたる」あるいは「養生屋」として入ってきた西洋式病院を、日本知識人がいかに認識したかを通して、近代日本において病院が「物理的な肉体を治癒する場」へと転化していったかを検討した。
桐原健真「「鎖国日本」言説と永久開国論:「第三の開国」をめぐって」 2014年 2月 千代田区・都道府県会館、日本と東アジアの未来を考える委員会、2014年02月20日 先に論文として発表した「第三の開国とは何か」(2011)を受けて、1980年代以降の開国言説論を検討した。「鎖国-開国」言説に縛られる時代は過ぎ去りつつあるものの、主導的世代においてはいまだ根強いものがあり、その克服が今後の課題であろう。
桐原健真「渋沢栄一の選択:論語の時代的意味」 2014年10月 「二松学舎と渋沢栄一」研究会、千代田区・日本工業倶楽部、2014年10月31日 渋沢栄一における『論語』の意味を考える際、『論語講義』ではこれを明らかにすることはできないことを確認しつつ、改めて『論語』が1920年代前後から非アカデミズムの次元で言説化されるのかを検討した発表。修養論でも教養論でもない形で、渋沢が『論語』で語った点が、その後の『論語』をめぐる言説の方向性を大きく規定したことを指摘した。
桐原健真「地球規模化する世界を読む:吉田松陰を手がかりに」(招待講演) 2015年 3月 NPO法人泉州てらこや、泉大津市・生福寺、2015年03月28日 平戸(1850年)・江戸(1851年)・水戸(1851~52年)という「松陰三戸」がいかに彼の世界観・日本観を変容させていったのかを論じた。
桐原健真「吉田松陰の実像―「垣」を越える―」(招待講演) 2015年 5月 広島市・広島県立総合体育館中会議室、ひろしま日本史を学ぶ会、2015年05月16日 松陰の先駆性とは、「癸丑(1853)以前」に、防衛する対象として日本を発見し、五ヶ国条約以前に一国家一元首の原則を発見したところにある。本発表では、自らに対峙する西洋に抵抗する自己を発見するという自他認識の転回の過程を考えていきたい。
桐原健真「渋沢栄一と近代論語の世界」 2015年 5月 東アジア文化交渉学会第7回年次大会、足柄上郡開成町・開成町福祉会館、2015年05月09日 渋沢栄一における儒学思想、とりわけその『論語』の理解について議論される際、しばしば二松学舎から刊行された『論語講義』(全2巻、1925年)が用いられてきた。しかし近年では、同書が実際には筆述者である二松学舎教授の尾立維考による意図的な編集が加えられた、いわば編者自身の著述に近いものであることが、笹倉一広氏の書誌学的検討から指摘されている。この点で、『論語講義』をもって渋沢思想を語ることが、学問的にきわめて危険であることは明かであろう。しかし、『論語』全編を講釈する『論語講義』が、実業家として知られる渋沢の著作として世に問われたことは、これ以降の日本社会における『論語』への認識を大きく規定するものともなったと考えられる。本発表は、同時代の非アカデミズムの分野における『論語』言説を概観することを通して、『論語講義』の文化史的意味を問うことを目的とするものである。
桐原健真「渋沢栄一と近代論語の世界」 2015年 5月 足柄上郡開成町・開成町福祉会館、東アジア文化交渉学会第7回年次大会、2015年05月09日 渋沢栄一における儒学思想、とりわけその『論語』の理解について議論される際、しばしば二松学舎から刊行された『論語講義』(全2巻、1925年)が用いられてきた。しかし近年では、同書が実際には筆述者である二松学舎教授の尾立維考による意図的な編集が加えられた、いわば編者自身の著述に近いものであることが、笹倉一広氏の書誌学的検討から指摘されている。この点で、『論語講義』をもって渋沢思想を語ることが、学問的にきわめて危険であることは明かであろう。しかし、『論語』全編を講釈する『論語講義』が、実業家として知られる渋沢の著作として世に問われたことは、これ以降の日本社会における『論語』への認識を大きく規定するものともなったと考えられる。本発表は、同時代の非アカデミズムの分野における『論語』言説を概観することを通して、『論語講義』の文化史的意味を問うことを目的とするものである。
桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(招待講演) 2015年 6月 間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日 改めて考えてみると「尊王攘夷」は不思議なことばである。「尊王」は臣下の必須行為だが、「攘夷」は明らかに主君の専権事項であり、臣下一般の当為ではない。「尊王」という道徳的信条が、「攘夷」という軍事的主張と結び付いたとき、政治的運動に転化していくというのが、「尊王攘夷」ということばの大跳躍なのである。
桐原健真「近世日本における「公論」観念の変容」 2015年 6月 名古屋市・愛知学院大学楠元キャンパス、東海日本思想史研究会、2015年06月20日 古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。
桐原健真「日本近代の死生観:「お迎え」は来るのか?」(招待講演) 2015年 7月 NPO法人想像文化研究組織カレッジICI、神戸市・甲南大学、2015年07月11日 近代日本における宗教忌避の思想史的背景について考え、現代日本においてあるべき死生観を模索する。
桐原健真「近世から近代へ:金次郎の自然観と現代」(招待講演) 2015年 9月 小田原市・生涯学習センターけやきホール、二宮金次郎生誕地記念講演会開催実行委員会、2015年09月06日 近世末に確立した金次郎の思想は、「報徳思想」というかたちで近代へと承け継がれた。儒学をはじめとした近世期の諸思想が、明治以降において、急激にその力を失っていったことを考えたとき、その独自性は明らかであろう。しかしながら、福住正兄によってなされた一連の出版事業に対して、その弟子たちによって批判が加えられたという事実が象徴するように、金次郎の思想の全体像については、その後継者(を自認するひとびと)のあいだにおいても、必ずしも一致するものではなかった。こうした金次郎における思想の正当性をめぐる論争には、農業をはじめとした諸産業に立脚した日本社会を、いかに近代化するかという問題に対するおのおのの立場が現れていると言えよう。本発表では、近代日本が金次郎の思想をいかに理解しようとしたかを論じ、かつ21世紀の今日において、どのように継承していくことができるのかについて検討していきたい。
桐原健真「阪谷朗廬と備中の漢学、渋沢との関係」 2015年 9月 公益財団法人渋沢栄一記念財団主催「「備中の漢学」を考えるシンポジウム」、井原市・興譲館高等学校、2015年9月11日 幕末から明治にかけて、備中(現在の岡山県西部)には、著名な漢学者が輩出し自らが活躍するとともに多方面の指導者に大きな影響を及ぼしました。二つのシンポジウムでは、備中出身の三島中洲、阪谷朗廬と近代日本社会の形成に大きな足跡を残した渋沢栄一との関係に焦点を当て、近世から近代への激動期における東アジアの中の日本という視点から備中の漢学の果たした役割を浮き彫りにし、その現代的意味を考えます。(シンポジウム趣旨文)
桐原健真「帰一協会の思想史的意義とその可能性:渋沢栄一を軸として」、パネル6「帰一協会と渋沢栄一」 2016年 5月 東アジア文化交渉学会・第8回年次大会、2016年5月7日、吹田市・関西大学 「階級、国民、人種、宗教の帰一」を合言葉とした帰一協会は、その広範な参加者を得ながらも、必ずしも大きな成果を残さなかったようにみえる。たしかに、協会の経済的支柱であった渋沢栄一の死去や、思想的中心としての姉崎正治の東大退職などがあった1930年代には目立った活動がみられず、「姉崎博士の帰一協会」は「失敗」(『読売新聞』1936年3月20日朝刊、5頁)であったとすら言われた。しかしこの時期、一方では谷口雅春や伊藤証信らによる「万教帰一」や「万教共和」の運動があり、「帰一」という志向自体が社会から失われたわけではない。本報告は、渋沢や姉崎による諸教説の「帰一」という試みを再検討し、近代日本の宗教空間における一つの「対話」であった協会の思想史的意義を明らかにすることを目指すものである。このことは、今日、なおいっそうその可能性が問われている宗教間対話の検討に資するものとなろう。
桐原健真 The Birth of a Myth: Civil War and Sacrifice in Early Meiji Japan(神話の誕生:初期明治日本における内戦と犠牲) 2016年 6月 生成人類学会会議第10回夏季国際学会(The Generative Anthropology Society and Conference)、Guest Presentations by the Kinjo Occult Research Group、名古屋市・金城学院大学、2016年06月19日 The Meiji restoration did not prove to be successful without sparking a huge civil war, the likes of which Japan had not seen in four hundred years. This was called the Boshin Civil War, fought between the pro-Shogunate army and the New-government army. After this civil war, with a front extending over the eastern part of Japan, the New-government enshrined more than three thousand fallen soldiers as the tutelary deities of “their own nation” in Tokyo Shōkonsha (the shrine to summon souls), which is now the controversial Yasukuni Shrine. It can be said that they were sacrifices to establish the new régime of the so called "Meiji State." However, there was a stringent rule to sort the souls of dead soldiers, since, as with Valhalla, not all fallen soldiers were enshrined in this shrine. This was the birth of the myth of modern Japan. This paper will describe the construction of this myth by throwing light on the relation between enshrining and using dead soldiers as sacrifices.
桐原健真「宗教は一に帰すか―帰一協会とその試み―」 2016年 9月 日本宗教学会第75回学術大会、新宿区・早稲田大学(戸山キャンパス)、2016年9月10日 かつて宗教の帰一は、宗教者の多くにとって、一つの重要な課題であった。しかし日本では近世以降、現世主義の台頭により、無神論が知識人の間に広がった。この傾向は、明治に入るといっそう強くなった。たとえば西村茂樹は、道徳の基礎を宗教ではなく現世主義をもってすべきだと説いた。まさにこうした現世主義・反宗教的態度の系譜の上にいた人物である渋沢栄一が企図した「宗教の帰一」の思想史的意義について検討した。
桐原健真「モノとしての書籍」 2016年10月 パネルセッション「近世日本における出版文化の諸相」、日本思想史学会2016年度大会、2016年10月30日、吹田市・関西大学 日本思想史学会大会委員会が組織したシンポジウム連動企画としてのパネルセッションにおける発表。近代に接続する近世の出版文化について三人のパネリストとともに議論した。概要:「後期水戸学の大成者」(植手通有)とされる会沢正志斎に文集や全集等が『会沢正志斎文稿』(二〇〇二)以外に見られないことを意外と感じた者は少なくないだろう。幽谷・東湖父子に全集があることを考えれば、その念は更に強くなる。だが会沢の文業を遺す試みが皆無だったわけではなく、その全容を世に問う動きは彼の存命中からあったが、その主著を『新論』に求める理解は今なお強い。しかし『新論』は始めから「尊攘」や「国体」と結びつけて受容されたのではない。本発表は『新論』を手がかりに幕末におけるモノとしての書物の社会的存在を問うものである。
桐原健真「「漢学」と日本近代:三島中洲と渋沢栄一」 2017年 1月 二松學舍大学創立140周年記念シンポジウム「「論語」と「算盤」が出会う東アジアの近代 渋沢栄一と三島中洲」、千代田区・二松學舍大学、2017年01月21日 見城悌治ほか編『渋沢栄一は漢学とどう関わったか:「論語と算盤」が出会う東アジアの近代』(ミネルヴァ書房、2017年02月)の刊行記念(第二章「『論語講義』再考:近代論語のなかの渋沢栄一」を担当)でもある。
桐原健真「明治150年を前に水戸学を問う」 2017年 7月 奈良県立大学ユーラシア研究センター「近世・近代の思想研究会」、奈良市・奈良県立大学、2017年07月21日 「後期水戸学」の「理論的代表者」(丸山真男) や「後期水戸学の大成者」(植手通有)と言われる会沢正志斎についての語りについて、その生前から幕末維新を経て、近代そして戦後に至るまでの変遷を追ったもの。この作業を通して国体論と水戸学との硬直的な理解を再考した。
桐原健真「三山と松陰」 2017年 9月 奈良県立大学ユーラシア研究センター「谷三山研究会」、奈良市・奈良県立大学、2017年09月11日 1853年に松陰は、江戸に向けて諸国遊歴を続けていた。その際、大和周辺に3ヶ月ほど滞在している。そこで出会った大和五條の森田節斎や八木の谷三山に、松陰は強い影響をうけた。そしてまた、斎藤拙堂『海外異伝』(1850)をめぐる論争に巻き込まれ、彼自身も、学問とはいかにあるべきか、なにをなすべきかを問うていくこととなる。
桐原健真「吉田松陰の思想~転回する自他認識の軌跡をたどって~」 2017年10月 国士舘創立100周年記念事業・吉田松陰シンポジウム、2017年10月29日、世田谷区・国士舘大学 国士舘大学における「国士舘創立100周年記念事業」の一環として執り行われた「吉田松陰研究検討プロジェクト」主催のシンポジウム「再発見! 吉田松陰」での講演。
桐原健真「幕末志士たちの読書ネットワーク」 2017年11月 山口県図書館協会・山口県立山口図書館・萩市立萩図書館共催「第19回図書館振興県民のつどい・歴史講演会」萩市・萩市立萩図書館、2017年11月04日 吉田松陰が読書の人であったことはよく知られている。本発表では、獄中の彼における書籍蒐集や書籍貸借を描き出すことを通して、幕末志士の読書空間を明らかにすることを目的とした。招待講演。
桐原健真「幕末志士の読書ネットワーク」 2017年11月 萩市・萩市立萩図書館、2017年11月04日 山口県図書館協会・山口県立山口図書館・萩市立萩図書館主催による「第19回 図書館振興県民のつどい」における講演。幕末志士である吉田松陰(一八三〇~五九)の読書遍歴や書籍貸借を中心に、幕末の読書空間を論じた。
桐原健真「「天下の奇人」との邂逅:吉田松陰と谷三山」 2017年12月 橿原市・奈良県立大学共催「谷三山没後150年記念フォーラム」、橿原市・橿原文化会館、2017年12月3日 本発表は、大和という豊かな学問世界を松陰というマレビトがいかに認識したのかを主題としたものである。▽1851年末に、脱藩し東北を遊歴した吉田松陰(1830~1859)は、翌年、長州藩から士籍剝奪処分を受ける。しかしこれと同時に十ヶ年の諸国遊学許可を得た彼は、1853年正月にふたたび江戸を目指して東へと下っていった。瀬戸内海から大坂に上陸した彼は、長州藩邸のある京都を避けたのか、奈良や伊勢を経由して東海道に出ている。そしてこの旅路において、彼は大和やその周辺で活躍する知識人たちと出会い、大きく刺激を受けた。それが、大和五條の森田節斎であり、また八木の谷三山であった。▽節斎の学問に強く惹かれ、その私塾に長く滞在した松陰だったが、やがて大和を中心に広がる学問空間のなかに巻き込まれていく。当時の大和では、伊勢国津藩校有造館の督学(校長)であった斎藤拙堂(1797~1865)が著した『海外異伝』(1850、山田長政・浜田弥兵衛・鄭成功の小伝)をめぐる議論が展開していた。拙堂に批判的で、和文で反駁書を執筆していた節斎は、同様に批判書(漢文)をまとめていた三山と意見交換するために松陰を派遣する。いわば松陰は「遣い」として三山に面会したのだが、しかしそこで彼は三山を「天下の奇人」と高く評価し、その学識に深く敬服したのであった。▽こうした濃密な学問世界を経験したことは、兵学者たる松陰を大きく動揺させた。彼は、一時、みずからの家学である兵学を捨てて、文学の道を歩むことすら考えるようになっていたのである。そうした鬱々とした気持ちを抱きつつ江戸に入った松陰を待ち受けていたのが、浦賀沖へのペリー米国艦隊の来航であった。これを境として、彼のなかには、もはや兵学か文学かといった迷いは消えていく。そしてまた、かつて大和路においてあれほど敬仰した人々に対する評価も少なからず変わることとなったのである。招待講演。
桐原健真「「天下」と「五世界」:吉田松陰を中心に」 2018年 1月 就実大学考古学クラブ・史学会共催「歴史講演会」、岡山市・就実大学、2018年01月27日 吉田松陰(1830~59)がわずか数年で封建的分邦としての「藩国家」への帰属意識を越えて、「日本」と「五世界」とを発見していった軌跡を追うことを通して、他者を理解することの意味を問うたもの。招待講演。
桐原健真「渋沢栄一とその時代:近代論語の世界」 2018年 1月 渋沢栄一記念財団「「論語とそろばん」セミナー2018」、千代田区・御茶ノ水ソラシティ、2018年01月20日 「論語信者」と言われたほどに『論語』を好んだ渋沢栄一を手がかりに、近代日本における儒学・漢学の存在形態について論じた。招待講演。
桐原健真「幕末明治の私塾に学ぶ」 2018年 6月 哲学対話塾「第1回創設準備会」富士市・南松野会場、2018年6月23日 「私塾」ということばの原義からはじめ、その意味と意義を検討し、さらに実際に展開した私塾が、地道にテキストを読み合う場として存在していたところに重要な価値があったことを指摘した。招待講演。
桐原健真「日本語による思惟の150年」 2018年 6月 日本文芸研究会第70回大会シンポジウム「明治150年を振り返る」、仙台市・東北大学、2018年06月16日 日本文芸研究会第70回大会シンポジウム「明治150年を振り返る」における全体コメントとして、「近代」のイメージと近代において想像された「ことば」について資料を挙げつつ、近世と近代との連続と断絶について論じた。招待講演。
桐原健真「「古都」の奪還:近代日本における「奈良」という語り」 2018年 8月 奈良県立大学ユーラシア研究センター「近世・近代の思想研究会」、奈良市・奈良県立大学、2018年08月18日 「いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重ににほひぬるかな 伊勢大輔」と詠われたように、奈良は古都であった。しかし、今日、「古都」と言えば、もっぱら京都を指すことばであろう。しかし東京遷都によって、京都がたちまちに「古都」となったわけではない。むしろ京都は、「東京」の対語としての「西京」としてあり続けようとしたのである。しかし、次第に京都は事実上「古都」となっていく。その結果、本来の「古都」たる奈良は、ときに「廃都」とすら呼ばれるような存在に転化していく。本発表は、近代以降の奈良表象を問うことを通して、今日における奈良の語りについて考えていくことを目的とするものである。
桐原健真「早過ぎた思想家:吉田松陰とその時代」 2018年10月 明治維新150年記念公開講座「松下村塾と明治維新」、萩市・至誠館大学、2018年10月21日 数えにしてわずか30歳で安政の大獄に散った吉田松陰は、明らかに早すぎる一生を送った。しかし、その短さは単にその人生だけではない。彼が世界と日本とを考えるのに与えられた時間的猶予の短さでもあった。本発表は、彼の自他認識の転回を通して、彼の生きた時代を描き出すことを目的とする者である。招待講演。
桐原健真「明治維新と廃仏毀釈」 2018年11月 講演会、泉大津市・レークアルスター、2018年11月08日 廃仏毀釈をたんに法難としてではなく、その思想史的意味を検討した。
桐原健真「「尊王攘夷」とは何だったのか?:言説的考察」 2018年12月 The International Graduate Program in Japanese Studies at Tohoku University「The Meiji Restoration Revisited: Culture, Religion, and the State」、仙台市・東北大学、2018年12月17日 維新史において、「尊王攘夷」ということばが、きわめて重要なものであることは論を俟たない。そしてこの四字熟語が、中国古典において見出すことが困難なものであり、実際のところ、幕末日本において新たに造り出された漢語、いわゆる「近代漢語」の一つであることもまた、多くの先行研究が指摘するところである。▽しかしながら、この「尊王攘夷」という四字熟語そのものについて検討した先行研究は少ない。よしんばその思想的背景について語る場合でも、儒学を中心とした中国古典に依拠して、「尊王」と「攘夷」とを各々説明したうえで、これを接続するにとどまっている。多くの研究者の関心は、「尊王攘夷」の思想的背景よりも、このことばを掲げた人々が、いかに維新期の政治状況にみずからを投げ入れていったのかということであり、そこには、当該期の研究における政治史中心的な傾向を見出すことができよう。▽本発表は、四字熟語としての「尊王攘夷」ということばが生み出された思想的な背景とその意義の検討を通して、政治史とは異なる視座から、維新期の思想状況を論ずることを目的とするものである。
桐原健真「古都・旧都・廃都」 2019年 2月 奈良県立大学ユーラシア研究センターフォーラム2019「カタる・奈良」奈良市・奈良県立大学、2019年02月17日 今日、「古都=京都」図式は一般的だが、京都は「千年王城の地」として長く「都そのもの」であった。むしろ「古都」の地位は奈良にこそ与えられていたのである。また、「東京奠都」(1868)によって、いきなり京都が「古都」と認識されるようになったわけではない。代わりに京都に与えられたのは「西京」さらには「旧都」の地位であった。しかし、「東京」という「新都」との対比の磁場にとらわれた「西京」や「旧都」ではない京都の語りが、1910年代から始まっていく。それが「古都」としての京都であり、そこには大きな歴史的事件が介在していた。こうして奈良は、「一千年の古都」という地位を奪われることとなり、あらたな語りのなかに投げ込まれることとなるのである。かくて奈良は、和辻哲郎『古寺巡礼』(1919)にみられるように「南都」「古都」ではなく「廃都」と呼ばれるに至る。否、近代日本知識人の多くにとり、奈良はかつてのような宗教都市としての生きた文化空間ではなく、時間の凍結した「廃都」であり、巨大な「博物館」だった。この潮流を助長したのが、アカデミズムでの南都仏教の地位低下であった。もとより、肇国神話を中核とした「古都」としての奈良の語りはなお根強かったが、敗戦後はそれも後退していき、奈良の「博物館」化をいっそう促進した。しかし、奈良は決して人の住まぬ「廃都」でも、美術品が陳列された「博物館」でもない。いまこそ、そこに住まう人の姿がみえる文化空間としての奈良を描き出すことこそが、「古都」としての奈良の復興であり、そうした試みがいま改めて求められているのである。
桐原健真「書誌目録と全文テキスト:二つのデータベースの運用と展望」 2019年 2月 デジタル・アーカイブ研究会講演、渋谷区・国学院大学、2019年02月27日 雑誌記事検索(書誌情報DB)である「日本思想史文献データベース検索」と全文データベース(画像+テキスト)である「日本儒林叢書全文データベース」の二つの科研事業について、その運営と展望を論じた。
桐原健真「民間社会事業と「公」:渋沢栄一を中心に」 2019年 5月 東アジア文化交渉学会第11回国際学術大会、ドイツ・フリードリヒ・アレクサンダー大学、2019年05月12日 本発表の目的は、著名な実業家であり篤志家である渋沢栄一(1840-1931)を通して、近代日本における民間社会事業の特色を明らかにすることである。近代日本における民間社会事業の思想と実践は、たんに西洋思想だけでなく、18世紀後半から変わった「公」の概念にも起源がある。このことを明らかにするために、まずは、日本の歴史における「公」言説について、中国思想とりわけ儒学との関係でその概略を述べることとなろう。▼日本語においては、しばしば、「公」の意味は、「政府なるもの」と同値であった。しかし、徳川時代後期における儒学に対する理解の深まりは、「非政府」という意味での「公」概念を、知識人のあいだに流布させていく。こうした知的空間において、渋沢は、みずからの思想を形作ったのであり、それは彼の社会事業活動の基礎の一つともなったのである。
桐原健真「孟子の幕末」 2019年 6月 二松学舎大学SRF・東アジア学術総合研究所共同研究共催国際ワークショップ「近代漢学と孟子」、千代田区・二松学舎大学九段校舎、2019年06月23日 『孟子』が「四書」の一つに数えられ、儒学における重要な経典とみなされていたことは言うまでもない。しかし他方で、この列島上においては、『孟子』のうちに易姓革命を認める教説があることをもって、これを忌避する傾向もまた存在した。もとより、『孟子』自体は古代には伝来しており、また近世日本の知識人たちもまた『孟子』を重視していたのであるから、そうした言説がはたしてどの程度、この列島の思想史に根ざしたものであったのかは検討の余地がある。▼近世前期の儒者で、いわゆる古義学を確立した伊藤仁斎(1627-1705)が、「孟子の学は、孔門の大宗嫡派なり」(「孟子古義総論」、『孟子古義』1720刊)と高く評価したように、近世日本の知識人は、『孟子』という書を、もっぱら倫理を説く理論書として受容していった。しかしながら、こうした読み方は近世後期、とりわけ幕末に至ると大きく変容していくこととなる。すなわちそれは、「〔楊時曰く〕孟子の一書は、只だ是れ人の心を正くせんことを要(もと)む。人に心を存し性を養ひ、其の放心を収むるを教ふ」(朱熹『孟子集注』「孟子序説」)といったような個人的な倫理(「正心・誠意」)のあり方を問うような『孟子』の読みから離れて、むしろ政治(「治国・平天下」)を論ずる書として『孟子』を読み込もうとするものであった。▼こうした傾向の背景には、18世紀後半にはじまる「朱子学リバイバル」とでもいうべき思想的潮流において、形而上性を後退させた朱子学理解があったことは確かである。しかしそれ以上に、「今は則ち〔世界〕各区に並立して、交ごも戦国と為れり」(会沢正志斎『新論』「形勢」1825)というような、地球規模の戦国時代が到来したという時代認識が、やはり戦国時代――もとよりそれは中国のそれであったが――を生きた思想家である孟子への強い関心を惹起したのであった。▼本発表では、幕末における孟子の存在形態を、とりわけ尊王攘夷論との関係からみていくことで、志士たちが『孟子』をいかに受容したのかについて明らかにしていきたい。具体的には、「志士たちのバイブル」(源了圓)と呼ばれる会沢正志斎(1782-1863)の『新論』や、獄中に『孟子』を講じた吉田松陰(1830-1859)の『講孟余話』(1856成)などを取り上げて、その孟子理解を検討するものである。(招待講演)
桐原健真「近代日本のフィランソロピー:渋沢栄一における「公」と「民」」 2019年 7月 金城学院維持協力会総会講演、名古屋市・名古屋観光ホテル、2019年07月27日 フィランソロピーということばの成り立ちから、その意味を考え、こうした考え方が渋沢栄一の社会事業思想とどのように結びつくのかを検討した。
桐原健真「「公論」とはなにか:天誅組を出発点に」 2019年11月 「近世・近代の思想研究会」奈良市・奈良県立大学、2019年11月08日 天誅組檄文にもみられる「公論」、ことばが幕末においてどのようなかたちで新たな意味を与えられ展開していったのかを論じた。
桐原健真「漢訳仏典の近代」 2020年10月 第28回日本近代仏教史研究会研究大会、Zoom・2020年10月10日 「漢文」といえば「儒学」というイメージは強い。事実、近世日本の思想史的叙述などではそうした傾向はいまだみられる。しかし近代以前の日本では、漢文は儒仏神三教において共有された神聖なる言語として認識されていた。だが近代以降、儒学はその教説における神聖性を脱ぎ捨てて漢学さらには近代学知としての支那学へと専門分化し、また神道は国学の成立を契機として「異国の言語」たる漢文テキストから距離を置くようになっていった。かくて漢文テキストを奉ずる教説は、もっぱら仏教のみとなり今日に至っている。本発表は、梵巴仏典さらには蔵訳仏典が流入する近代日本において、漢訳仏典がいかに認識され、また存在したのかを検討するものである。
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データベース(第1~3期)

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真(代表)「日本思想史文献データベース」 共著 2006年 4月 日本思想史文献データベース制作委員会 1968年以降の日本思想史関係の論文・著作の目録をデータベース化したもの。とくに、多くの検索項目を付したことによって、多元的な検索が可能になっている。また、英語・中国語・ドイツ語・韓国語・インドネシア語などの多言語による検索も可能である。(http://www.sal.tohoku.ac.jp/dojih/)
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データベース

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真(システム構築・運用)「東北研究データベース検索」 共著 2007年 9月 東北大学東北文化研究室 東北文化研究室で収集した論文・著作物の県別書誌データベースとして整備。(http://www.sal.tohoku.ac.jp/tohokubunka/cgi-bin/)
桐原健真(代表)「在宅ターミナルケア遺族調査データベース」 共著 2008年 9月 東北大学臨床死生学研究会 2007 年に東北在宅ホスピスケア研究会が、医療法人社団 爽秋会 のホスピスケア利用者遺族の協力を受け実施した遺族調査の報告書をデータベース化したもの。(http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/database/)
桐原健真(代表)「日本儒林叢書全文データベース」(第1期) 共著 2011年 4月 日本儒林叢書全文データベース制作委員会 本データベースは、関儀一郎編『日本儒林叢書』を全文テキストデータベース化することを目的とする。同叢書は、近世日本における儒学・漢学者による著作を集成刊行した、全14巻1万2千頁におよぶ叢書であり、今日ではこの叢書でなければ容易に読めない著作も少なくない。この貴重な叢書を、日本国内のみならず全世界の日本研究者および日本文化に関心のあるすべての人々に対して発信することは、学術の国際交流に寄与するものであると言える。(http://www.sal.tohoku.ac.jp/jurin/)
桐原健真(代表)「日本儒林叢書全文データベース」(第2期) 共著 2014年 3月 日本儒林叢書全文データベース制作委員会 本データベースは、関儀一郎編『日本儒林叢書』を全文テキストデータベース化することを目的とする。同叢書は、近世日本における儒学・漢学者による著作を集成刊行した、全14巻1万2千頁におよぶ叢書であり、今日ではこの叢書でなければ容易に読めない著作も少なくない。この貴重な叢書を、日本国内のみならず全世界の日本研究者および日本文化に関心のあるすべての人々に対して発信することは、学術の国際交流に寄与するものであると言える。2013年度科学研究費・成果公開(データベース)補助事業(http://www.sal.tohoku.ac.jp/jurin/)
桐原健真(代表)「日本思想史文献データベース」(第4期) 共著 2014年 3月 日本思想史文献データベース制作委員会 1968年以降の日本思想史関係の論文・著作の目録をデータベース化したもの。とくに、多くの検索項目を付したことによって、多元的な検索が可能になっている。また、英語・中国語・ドイツ語・韓国語・インドネシア語などの多言語による検索も可能である。逐年情報の追加。2013年度科学研究費・成果公開(データベース)補助事業(http://www.sal.tohoku.ac.jp/dojih/)
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随筆

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
岡部 健・相澤 出・竹之内 裕文・桐原 健真・三井 ひろみ「【座談会】地域在宅ケアを考える・5 日本社会における「死の文化」変容―在宅ホスピスの現場から見えてくるもの」 共著 2008年 6月 『公衆衛生』72巻6号 日本における死生観の変容についてコメントした。483~489頁。
桐原健真「地球規模化する世界での普遍のつくりかた――吉田松陰と横井小楠」 単著 2008年 6月 『大航海:特集 日本思想史の核心』No.67 近代国家の礎を築いた吉田松陰と、近代を越えて、現代における国際社会のあり方を構想した横井小楠との比較思想論。(150~157頁)
桐原健真「日本思想史系データベースの利用とその現状」 単著 2010年 1月 『日本歴史』740号 日本思想史とその周辺分野におけるデータベース整備の現状と日本における人文系データベースの問題を論じた。
桐原健真「「情報の海」を越えて――吉田桧陰の情報との向き合い方に学ぶ」 単著 2011年 6月 『人間会議』2011年夏号 仙台で東日本大震災に遭遇した筆者が、情報が飛び交う現状と、幕末における情報氾濫状況とを比較しながら、情報の取捨選択の重要性について検討した。(56~61頁)
桐原健真「「開国物語」を解体する」 単著 2012年 7月 藤原書店『環』50号、2012年 中野剛志『日本思想史新論』(ちくま新書、2012年)の書評とともに、戦後日本に広く浸透した「鎖国日本」言説あるいは「永久開国論」の問題点について論じた(436~439頁)。
桐原健真「徳富蘇峰『吉田松陰』と「維新」の行方」 単著 2013年12月 杉原志啓・富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰』藤原書店、2013年 1893年に刊行された徳富蘇峰の『吉田松陰』は、単行本の形としては、事実上、初めての松陰の伝記であった。このことは、幕末に活躍した他の思想家や政治家と比べても、少しく遅い登場であったと言える。『吉田松陰』が、今日においても松陰論の古典として評価が高いのは、けっしてその先駆性にあるのではなく、これが戦前期にしばしばみられた愛国主義・膨張主義的な松陰論とは一線を画しているからにほかならない。或る意味で、この『吉田松陰』という書は、偉人伝としての松陰論を拒否するところから出発しており、このことが却ってその成功をもたらしているのである。(143~147頁)
桐原健真「吉田松陰(1830-59)・山鹿素行(1622-85):近世日本の「中国」問題」 単著 2014年 4月 藤原書店『環・特集:今、「国家」を問う』57号、2014年4月、279-282頁 藤原書店刊の『環・特集:今、「国家」を問う』57号における「小特集:近世・近代日本の国家観」への執筆。近世日本における「中国」という呼称の問題を、『中朝事実』を著した山鹿素行と山鹿流兵学者であった吉田松陰との比較のなかから論じた。また、しばしば松陰に素行の影響があると指摘されるが、そうした系譜論的憶測に対しても警鐘を鳴らしている。
桐原健真「渡辺崋山(1793-1841)・高野長英(1804-50):日本への目覚め」 単著 2014年 4月 『環・特集:今、「国家」を問う』57号、2014年4月、271-274頁 藤原書店刊の『環・特集:今、「国家」を問う』57号における「小特集:近世・近代日本の国家観」への執筆。蛮社の獄は尚歯会への言論弾圧だという見解への批判、ならびに高野長英がいかにして「憂国の経世家」となっていったのかという過程を論じた。
桐原健真「「公論」はどこへ行ったか?:幕末日本における言論空間の所在」 単著 2015年 1月 『環』60号、2015年 本稿では、「公」を独占する「公儀」から、「公論」の意味変容を通して、これを奪取し、ついに暴走に至った過程を論じている。そしてときに暴走することもあった「公」が、結局は新しい「公権力」としての「皇」に回収されていきながらも、他方で自由民権運動のような草の根的運動に引き継がれていったことを指摘している。 (218~224頁)
桐原健真「「公論」が「公論」であるために」 単著 2015年12月 『三和新聞』三和テッキ株式会 近代的な意味での「公論」の生成過程を確認しつつ、昨今の政治情勢をふまえて、現代的な「公論」のありようを考える。
桐原健真「「アジア」はどこにあるのか」 単著 2017年 3月 ユーラシア研究センター情報誌『EURO-NARASIA Q』7号 桐原健真「アジアはどこにあるのか―言説史的考察―」(ユーラシア研究センター編『奈良に蒔かれた言葉と思想。』2017年3月)を市民向けにリライトしたもの。
桐原健真「吉田松陰:地方幽囚者の思索」 単著 2020年 1月 『機』334号、2020年01月、18-19頁 藤原書店刊『機』のリレー連載「近代日本を作った100 人」の70人目の人物として吉田松陰について論じた。18-19頁。
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翻訳

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真・オリオン=クラウタウ共訳:リチャード=ジャフィ著「戦前日本における仏教的物質文化、〈インド趣味〉、および汎アジア仏教の形成」 共著 2008年12月 『東北宗教学』4号 言説論の対象はテキストだけではない。本稿は建築という視覚的な物質の文化的機能に着目したものである。近代日本の仏教寺院建築には、築地本願寺のようにインド風様式を取り入れたものが多い。これはたんなる「仏教の本国」への憧憬の結果ではなく、インドや東南アジアの仏教建築様式を取り入れることで、「日本仏教」が、これら地域の諸仏教を含み込んだ「最高の世界的仏教」であることを視覚的に訴えるものでもあったのである。
桐原健真・オリオン=クラウタウ共訳:澤田ジャニーン著「幕末における宗教的対立――禅師今北洪川と儒者東澤瀉」 共著 2009年 3月 『日本思想史研究』41号 幕末の仏教研究が、月性等の勤王僧を対象とすることが多い中、本稿は儒仏論争を対象とした点で重要である。長州藩岩国領の陽明学者・東澤瀉が、尊攘論等の時局的立場から仏教批判を展開したのに対し、臨済僧の今北洪川は、時局の趨勢とは関らない宗教的普遍を模索する立場から、儒仏の融合論――教説を越えた真理――を提示する。洪川の態度には、近代日本の仏教者とは異なる超越的な真理への確信が存していたのである。
桐原健真、オリオン・クラウタウ共訳:トマス・ツィード著「米国オカルティズムと日本仏教─A・J・エドマンズと鈴木大拙、そしてトランスロカティヴな歴史叙述」 共著 2012年 3月 『年報日本思想史』11号 鈴木大拙とオカルティズムの関係は、大拙自身の否定もあり、明確にされることはなかった。本稿は、米国側資料の詳細な検討によって、太平洋を挟んだ二人の思想家が形作った宗教的・思想的なオカルティック(隠された)な関係を明らかにしている。またこの大拙とエドマンズという個的な思想主体相互の交流という関心は、近年論じられてきたトランスナショナルな文化研究に対して、ナショナリティという問題設定をも越えた視座としてのトランスロカティヴという認識枠を提示してくれるのである。
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辞典等

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
遠山淳・中村生雄・佐藤弘夫編『日本文化論キーワード』 共著 2009年 3月 有斐閣 桐原健真「専応口伝」(143)、「政談」(153)、「翁の文」(154)、「南総里見八犬伝」(157)、「国意考」(156)、「古事記伝」(158)、「東海道四谷怪談」(159)、「真善美日本人」(168~169)、「思想の科学」(184~185)、「騎馬民族国家」(188~189)、「漢字論」(232~233)、
中村義・久保田文次ほか総著者数5名編『近代日中関係史人名辞典』 共著 2010年 7月 東京堂出版 桐原健真「河口慧海」(204~205)、「能海寛」(445)、「小牧昌業」(260~201)、「本田成之」(511~512)
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インタビュー

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「「倒幕」へと志士達を突き進ませた吉田松陰の「松下村塾」」 単著 2009年10月 『商工にっぽん 【特集1】ムーブメントと場』749号 松陰によって主宰された松下村塾が如何なる形で人材育成を展開したかについて論じた(20~23頁)
桐原健真「大局を見通し、日本を守る…全国周遊から得たもの」 共著 2015年 3月 『歴史街道』2015年03月号、2015年、86~91頁 会沢正志斎と佐久間象山という二人の思想家が、いかに松陰に影響を与えたか、そしてこうした思想継受を経て、どのような新日本建設の構想を確立したのかについて論じた。
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事典項目

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「吉田松陰」 単著 2013年 9月 石田一良・石毛忠編『日本思想史事典』東京堂出版 吉田松陰に関する辞書的記述。松陰の生涯を、全体で5期に分け、その思想的展開を、自他認識の転回とともに論じた。394~395頁。
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史料散歩

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「【史料散歩】東北大学附属図書館狩野文庫蔵・松原右仲『万国輿地全図』」 単著 2014年 4月 『日本歴史』791号、2014年4月、93-95頁 会沢正志斎が、その主著『新論』(1825)を執筆する大きな理由となった大津港事件(イギリス捕鯨船員の上陸事件)の際に筆談のために用いた世界図が、東北大学附属図書館狩野文庫蔵の松原右仲『万国輿地全図』である。この会沢手沢の世界図が、彼の世界像をいかに規定したのかを論じた。
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テレビ出演(インタビュー)

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
『英雄たちの選択:黒船で世界をめざせ!維新の原点 吉田松陰の決断』NHK BS プレミアム、2016年01月08日(木)20:00放送 共著 2015年 1月 NHK BS プレミアム、2016年01月08日(木)20:00放送 その行動と思想によって幕末の志士たちに大きな影響を与えた男、吉田松陰。彼が命をかけた人生の大きな決断、それは黒船による海外密航。アヘン戦争をきっかけに欧米列強の脅威にさらされるようになった日本。松陰は日本の独立を維持するために悩み手段として外国を打ち払う「攘夷(じょうい)」を唱える必要性に迫られながらも、西洋文明を取り入れることの重要性をも認識していた。一途な思いで幕末を駆け抜けた松陰の実像に迫る。(https://www.facebook.com/NHKonline/posts/1013553922004606)
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市民講座

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「幕末維新の日本①:「尊王攘夷」をめぐって」 単著 2015年 6月 かすがい熟年大学、春日井市・文化フオーラム春日井、2015年06月10日 幕末維新期の思想史に関する市民講座。尊王攘夷論を、その主語という新しい視座から論じた。
桐原健真「幕末維新の日本②:吉田松陰の思想と行動」 単著 2015年 6月 かすがい熟年大学、春日井市・文化フオーラム春日井、2015年06月24日 幕末維新期の思想史に関する市民講座。吉田松陰の世界観をその思想的変容を通して論じた。
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テレビ出演(パネリスト)

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
『英雄たちの選択:知りすぎた男たちの挑戦 蛮社の獄 渡辺崋山と高野長英の決断」』NHK BS プレミアム、2016年01月28日(木)20:00放送 共著 2016年 1月 NHK BS プレミアム、2016年01月28日(木)20:00放送 権力にもの申すことが命の問題に直結した江戸時代。幕府の政策に危機感を抱き、あえて意見書をしたためた二人の男がいた。渡辺崋山と高野長英。二人は当時、世界を最も知っていた日本人とも言われる。西洋の学問を通して世界情勢に精通、いわゆる鎖国を貫こうとする幕府の方針に異を唱えた。そうした動きに対し、幕府は弾圧で臨む。世に言う蛮社の獄。死の危険に直面しながら、二人は何を訴え、どんな葛藤を抱えていたのだろうか。(出演 : 磯田道史 、岩下哲典 、宮崎哲弥 、平野啓一郎 、桐原健真。http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2016-01-28/10/21352/2473060/)
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書評

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
書評:桐原健真「米原謙著『国体論はなぜ生まれたか : 明治国家の知の地形図』」 単著 2016年 6月 『日本歴史』2016年06号、817号、107-109頁 幕末から始まる国体論という言説を取り扱うには、長期的視野とともに、近世―近代という二つの「文法」を理解する必要がある。この点で、著者は、この問題に取り組む資格を十分有していると言えよう。
桐原健真「書評・川邉雄大編『浄土真宗と近代日本:東アジア・布教・漢学』」 単著 2017年 3月 『仏教史学研究』59巻2号 川邉雄大編『浄土真宗と近代日本 東アジア・布教・漢学 単行本』(勉誠出版、2016年)を書評した。58-65頁。
桐原健真「新刊紹介・大阪大学会沢正志斎書簡研究会編『会沢正志斎書簡集』」 単著 2018年 3月 『明治維新史研究』15号 大阪大学会沢正志斎書簡研究会編『会沢正志斎書簡集』(思文閣、2016年)について書評した。71-73頁
桐原健真「西村玲著『近世仏教論』」 単著 2019年 6月 『宗教研究』93巻1号、2019年 本書は、2016年2月2日に43歳で急逝された著者の遺稿集でである。生前の著者は、近世日本における仏教を当該期独自の思想的営為として叙述することに努めており、そうした試みは、二〇〇八年に公刊された『近世仏教思想の独創――僧侶普寂の思想と実践』(トランスビュー)にその基本的な形をみることができる。本書は、主としてこの『独創』の延長上に位置する研究論文を収めたものであり、そこには、著者がみずからの対象を拡充しつつ、研究活動を続けた軌跡をみることができる。「遺稿集」である本書は、まさに著者が遺していった論考を集めたものであり、その限りで必ずしも整序されたものではない。しかしだからこそ、そこには著者の研究者としての問題意識や研究の営みが、いわば生のままで現れている。こうした性質を有するからこそ、本書の読者は、たんに「近世仏教」という分野に関する学問的知識を得るだけではなく、西村玲という一人の研究者の存在やその世界観をも知ることになるはずである。153-157頁。
桐原健真「関口直佑著『近代日本国体論の研究:会沢正志斎と考証学』」『図書新聞』3454号、2020年07月04日 単著 2020年 7月 『図書新聞』3454号、2020年07月04日 関口直佑著『近代日本国体論の研究:会沢正志斎と考証学』の書評。戦後初の総合的な会沢正志斎研究として高く評価した。
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市民公開パネルセッション

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「黒衣の維新志士たち」 単著 2018年11月 『カミとホトケの幕末維新』刊行記念連続講座、京都市・丸善京都本店、2018年11月17日 『カミとホトケの幕末維新』刊行記念連続講座として実施。
桐原健真「明治維新とはなんだったのか」 単著 2018年12月 『カミとホトケの幕末維新』刊行記念連続講座、京都市・丸善京都本店、2018年11月10日 『カミとホトケの幕末維新』刊行記念連続講座として実施。
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講演

著書名 単著、
共著の別
出版年月 発行所・発表雑誌等 概要
桐原健真「近代日本のフィランソロピー:渋沢栄一における「公」と「民」」 単著 2019年 7月 金城学院維持協力会講演会、名古屋市・名古屋観光ホテル、2019年07月26日 実業家として知られる渋沢栄一のフィランソロピー活動の思想的背景には、「官尊民卑」に対する強い抵抗があった。こうした態度の淵源には、性年次における封建制下でのいわゆる「権柄」への反発と、フランス社会における「自由」の経験があったことを明らかにした。(招待講演)
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