著書名 |
単著、 共著の別 |
出版年月 |
発行所・発表雑誌等 |
概要 |
「サッティヤーグラハ」言説の批判的分析―ナイポールの「ガンディー主義」批判を手掛かりに |
単著 |
2006年 3月 |
日本比較文学会『比較文学』第四十八巻 |
サッティヤーグラハを進めるにあたり、ガンディーは非暴力を強調し、愛と慈悲の重要性をくり返し訴えた。見方を変えれば、その道徳的言説は人間に感情、特に「怒り」を抑制するよう命じるものであった。本論では、その影響をノーベル文学賞受賞作家V.S.ナイポールの作品Half a Lifeを通じて考察している。そして、非暴力言説には、自己愛に依存する無気力な者へと人間を変化させる作用があると論じた。(96‐109頁) |
現代の非暴力主義の言説におけるサッティヤーグラハ運動の表象―非暴力主義の本質的問題の探究― |
単著 |
2006年 5月 |
大阪大学大学院言語文化研究科『ポストコロニアル・フォーメーションズ』 |
現代の非暴力言説の多くが、ガンディーを引き合いに出すと、その道徳性を正当性の根拠とする。しかし、そのために暴力と非暴力は二分法的に理解されるようになったのだとアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは指摘する。そして、それはガンディーに起因するのだと結論付けるが、しかし「現代の非暴力」と「ガンディーの非暴力」は同じ枠組みに基づくものではない。本論では、ガンディーの非暴力を批判するためには、それがサッティヤーグラハという運動の一部であることを踏まえなければならないと問題提起した。(20-30頁) |
非暴力主義前史―ロンドンと南アフリカのガンディー |
単著 |
2007年 3月 |
大阪大学大学院言語文化学会『大阪大学言語文化学』Vol.16 |
ガンディーが弁護士であり、差別法への抵抗運動から、彼の運動が始まっていることに着目し、「法」という観点からサッティヤーグラハを考察した。本論では、ガンディーの「不服従」を、近代法による統治体系からの自己排除と定義する。自己排除によって西洋近代法を否定したガンディーは、最高の法である「真理」を提示した。とすると、ガンディーのサッティヤーグラハは西洋近代法に基づく秩序体系の破壊と、「真理」に基づく非暴力社会の建設を目的とした運動だったととらえ直すことができる。(41-52頁) |
サッティヤーグラハと市民的不服従―M.K.ガンディーとH.D.ソローの比較を通じて― |
単著 |
2007年 5月 |
大阪大学大学院言語文化研究科『ポストコロニアル・フォーメーションズⅡ』 |
「ソローの影響を受けてガンディーは不服従を展開した」ことは歴史的事実とされている。しかし、それをガンディー自身が否定していたことはあまり知られていない。本論では、この歴史的事実が誤謬であることを明らかにし、誤謬が生じた背景として、被植民地における英語による言語的支配を考察した。さらに、ソローとガンディーが、英語の言説空間で関連付けられたことを指摘した上で、両者の不服従の相違点を示し、「歴史的事実」はソローにはない、ガンディーの破壊性を不可視化するものであることを明らかにした。(7-16頁) |
マハトマを待っているのは誰か―真理の散種とサッティヤーグラハのずれ |
単著 |
2007年12月 |
日本英文学会関西支部『関西英文学研究』創刊号 |
ガンディーと同時代のインド英語作家R.K.ナラヤンのWaiting for the Mahatmaを通して、インド独立運動期に、ガンディー言説がどのように受け取られ、流布されたのかを考察する。比喩や抽象表現を多用するガンディーの言説は、意味的なずれを生じさせるものだった。そのため、人々が暴力に接近する余地は常に残されていたといえる。すなわち、暴力と非暴力を二分することは不可能であり、ガンディーが想定した完全な非暴力は絶対的理想ではあるが、実現不可能なものだったといえる。(83-98頁) |
支配も抵抗もしない人間―ガンディーの経世代的影響― |
単著 |
2008年 5月 |
大阪大学大学院言語文化研究科『ポストコロニアル・フォーメーションズⅢ』、P29-P38。 |
「ガンディーの非暴力言説は、人々に怒りの抑制を命じる」という先の論文(2006)を踏まえ、その後の影響を考察した。ノーベル賞作家ナイポールのHalf a Lifeは、その影響が一世代に留まるものではないことを示唆しており、「半分を失った」というタイトルは現代人の生を表象するものといえる。「怒り」の抑制は、「怒り」の喪失として、世代を超えて受け継がれ、そうした人間は建設性、すなわち現状を改善する意欲を失う。そのため、他者を支配することはないが、支配に抗することもなく、従属的生を選択することになる。(29-38頁) |
非暴力の系譜―M.K.ガンディーの真理の闘い― |
単著 |
2008年 6月 |
博士論文(大阪大学) |
本書では、ガンディーから現代に至るまでの非暴力の変化を追い、その思想を批判的に分析する。ガンディーの非暴力は、非暴力社会の建設を目的とする、「真理の法」の探求と実践であった。しかし、ガンディーは非暴力を徹底する反面、人々に感情の抑制を命じると、彼らの生き方を全面的に規定、管理した。結果的に支配に従順な人間を作り出すそのやり方、現代の生政治的管理に通底するものといえる。このガンディーの思想は「ずれ」た形で広がった。インド国内から世界へと拡散する過程で、その「ずれ」は拡大し、本来有していた建設性も破壊性も失われた。暴力を耐え忍ぶ自己を見せ付ける「現代の非暴力」は、他者の同情を喚起するための手段にすぎない。 |
ガンディーと進化論 |
単著 |
2011年 3月 |
近畿大学教養・外国語教育センター『近畿大学教養・外国語教育センター紀要. 外国語編』Vol.1, No.2 |
本論文は、ガンディーの近代的側面を明らかにするものである。本論では、ガンディーが「科学」を尊重していたことから、進化論に着目し、彼がそれを「真理」とみなしていたことを明らかにする。ダーウィン進化論に影響を受けたガンディーは、後に、社会ダーウィニズムを批判するに至る。しかし、進化論そのものを否定したわけではなく、ダーウィンからウォレスへとシフトした後は、独自の社会進化論を語り、それを運動の原理とした。(99-112頁) |
「田舎」と「都会」と、そのあいだの「ユートピア」― M.K.ガンディーの「村落共同体」をめぐって - |
単著 |
2015年 |
金城学院大学『金城学院大学論集』第12巻、1号 |
本論では、レイモンド・ウィリアムズの田舎と都会」モデルを手掛かりに、初期インド英語文学とM.K.ガンディーが提起した理想の〈村〉を考察する。インドに英語文学が誕生したのは1930年代、つまり独立運動期のことである。その作品にはガンディーの影響が見られ、例えば「三大作家」と呼ばれる初期の作家たちは、総じて村を舞台とする作品を残している。しかし、ガンディーと作家たちが、同じように村を描いたわけではない。ガンディーが村を理想郷として表象するのに対し、作家たちは、そうしたガンディーの思想・が入り込んでくる村の様子を描写した。さかのぼれば、ガンディーの〈村〉は、イギリスのユートピアニズム的「村落共同体」概念に端を発する。言い換えれば、〈村〉を理想郷とする思想は「都会」であるイギリス由来ものものであり、実際の村にとってみれば、それは「都会」からやって来た近代化の波のひとつに他ならない。ここで村をめぐる三つ巴の関係―実際の村、ガンディーの〈村〉、英語作家の「村」-が明らかとなる。ウィリアムズは、英語作家が描き出す「都会」が「田舎」に浸透した際に生じる「内的緊張」を重視したが、こうしてみると、それは「都会」であるイギリスと「田舎」であるインドの二者間というよりも、より重層的かつ動的なものとしてとらえ直すことができる。 |
M.K.ガンディーの「ユートピア」と「パラダイス」 |
単著 |
2016年 |
金城学院大学『金城学院大学論集』第13巻、1号 |
本論文は、先の「「田舎」と「都会」と、そのあいだの「ユートピア」―M.K.ガンディーの「村落共同体」について-」 の続編にあたる。本稿では「ユートピア(Utopia)」と「パラダイス(Paradise)」を手掛かりに、ガンディーのサッティヤーグラハ言説の分析を通して、彼の運動が失敗に終わった原因を炙り出す。サッティヤーグラハは当時から「ユートピア主義」と批判されていた。それに対し、ガンディーは断固否定し、自らの理想を表すのに「パラダイス」という語を用いた。この「ユートピア」言説との闘いに、ガンディーは多大な時間と労力を割いたが、彼の「パラダイス」が英語の言説空間で流通することはなかった。その言説上の攻防が、ガンディーの「革命的変革」に勝ち目がなかったことを示唆している。「都会と田舎」モデルに即して言えば、「都会と田舎」の外側に〈村〉を建設したところで、その言説が「都会」の射程に入った時点で、それは「都会と田舎」という枠組みに取り込まれてしまうのだ。 |
インドへの欲望、その「語り」と「騙り」―『パイの物語』を通してー |
単著 |
2017年 3月 |
日本比較文学会『比較文学』第五十九巻 |
本論は、ヤン・マーテル著Life of Piが「精神性のパラダイム」としてのインドを、いかに現代向けに刷新しているのかを考察するものである。「神を信じさせる物語」として呈されるこの物語については、その宗教観を中心に議論されてきた。しかし、それらの問いはどれも、キリスト教信仰を基本に立てられたものであり、インドを舞台とするこの物語の解釈に適切なものとはいえない。この作品は、マーテルのインドでの実体験に基づくものであり、彼がインドで見出した「恍惚」と「語り/騙り」がその軸となっている。言い換えると、著者は「インドの恍惚」を語るのに、インドの「語り/騙り」を採用したのだ。そうして見ると、主人公Piを現代社会に適応した汎インド的人物として描き出したのは、「精神性のパラダイム」としてのインドを刷新するための方策といえる。しかし同時に、インドの「語り/騙り」を見抜いた彼の、インドの「恍惚」を否定することはできない。 |
アサイラムの中心でアジールを叫ぶ ―「反ユートピアニズムに反対」のスローガンを掲げて― |
単著 |
2020年 3月 |
金城学院大学『金城学院大学論集』第16巻2号(2) |
本論では、ユートピアニズムの終焉について「アサイラム」と「アジール」の2つを鍵概念とし、考察を進めた。これら2つはそれぞれ別の意味を持ち、アカデミズムの別の領域においてタームとして用いられているのだが、「避難所」を意味する同じ語源を持つ。社会学の領域に取り入れられた「アサイラム」は反精神医学運動とともに、それを打破すべき対象とした。他方、「アジール」は人文学の領域で、平和で自由な空間を意味してきた。本論では、特にサンカ言説に着目することで、そのアジール性がいかにアサイラムに侵食されてきたか、そして、それがユートピアニズムに終焉をもたらしたことを論じた。 |
題目/演目名等 |
発表年月 |
発表学会名等 |
概要 |
ガンディーにおける西洋的法秩序への挑戦とそこからの排除―南アフリカでのサッティヤーグラハ闘争を中心に― |
2006年 6月 |
第68回日本比較文学会全国大会 (於日本女子大学) |
ガンディーが弁護士であり、差別法に対する抵抗運動から、彼の運動が始まっていることに着目し、「法」という観点からサッティヤーグラハを考察する。そうすると、ガンディーの「不服従」は、近代法による統治体系からの自己排除とみなすことができる。自己排除によって西洋近代法を否定したガンディーは、最高の法「真理」を掲げる。こうしてみると、サッティヤーグラハは西洋近代法に基づく秩序体系の破壊と、「真理」に基づく非暴力社会建設を目的とする運動だったととらえ直される。 |
R.K.Narayanの非暴力主義―Waiting for the Mahatmaにおけるサッティヤーグラハ運動のずれ― |
2006年12月 |
日本英文学会関西支部第1回大会 (於大阪大学) |
ガンディーと同時代のインド英語作家R.K.ナラヤンのWaiting for the Mahatmaを通して、インド独立運動期に、ガンディーのサッティヤーグラハ言説を人々がどのように受け取り、広く流布していったのかを考察する。比喩や抽象表現を多用するガンディーの言説は、意味的なずれを生じさせやすいものだった。それゆえ、人々が暴力に接近する余地は常に残されていた。とすると、暴力と非暴力を二分することは不可能であり、ガンディーが想定した完全な非暴力は絶対的理想ではあるが、実現不可能なものだったといえる。 |
ガンディーと進化論 |
2009年 6月 |
第71回日本比較文学会全国大会 (於大阪大学) |
近年ガンディーの近代的側面に焦点を当てた研究が見られるが、本発表では、思想におけるガンディーの近代的側面を考察する。何よりガンディーは科学を尊重し、当時の最先端科学である進化論を「真理」とみなしていた。実際、彼は自説の理論的支えとしてダーウィンの進化論を援用している。後に、彼は社会ダーウィニズムを批判するに至るが、進化論を放棄するわけではない。ダーウィンからウォレスへと援用先を変えた後、ガンディーは独自の社会進化論を発展させると、それを運動の原理としている。 |
ガンディーはソローを模倣したのか? |
2011年 4月 |
日本比較文学会関西支部4月例会 (於京都外国語大学) |
拙著『M.K.ガンディーの真理と非暴力をめぐる言説史』の第4章を中心に発表した。ガンディーがソローの「不服従」という表現を借用したのには、インドの土着の言語での表現には制限があったこと、そして植民地が英語によっても支配されていたという背景があった。実際、両者の不服従は異なっており、ガンディーの不服従には、ソローにはない破壊性が認められる。ガンディーは西洋近代法に基づく秩序体系の破壊を企図していた。しかし、国家の改善を願うソローと結び付けられたことで、ガンディーの破壊性は不可視化されてしまった。 |
ガンディーの「村落共同体」 |
2012年 6月 |
第74回日本比較文学会全国大会 (於大正大学) |
ガンディーは「農村」を理想郷とし、社会改革のモデルとした。そのため、彼は反近代的、反西洋的と位置付けられてきたが、しかし、実際のところ、ガンディーは「村落共同体」という理想郷を、西洋近代のテクストから発見し、実践していた。そうした観点に基づき、同時代のインド英語文学を考察すれば、「農村」にとって、ガンディーの運動は、西洋近代文明と同様、「町」からやってくるものだったといえる。つまり、西洋近代文明を否定するガンディーの運動は、西洋近代文明と競合するもう一つの近代だったともいえるのである。 |
グローバル化する世界とインドの役割:Life of Piにおける信仰と非暴力と騙り |
2014年10月 |
日本英文学会中部支部シンポジウム |
19 世紀以来、インドを「精神性のパラダイム」とする国際分業は継続中であるといえるが、グローバル化が進行する今、その役割がいかに刷新されているのかを、Yann Martel, Life of Pi (2001)を通してみる。作者は、この小説を「神を信じたくなる物語」として開始し、その物語をヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教を同時に信仰するインド人Piに語らせる。Piのこの宗教的越境を支えるのがM. K. ガンディーだ。しかし物語の後半、非常事態下のPiに、非暴力と暴力の折り合いをつけるという課題が押し付けられることで、ガンディーの非暴力の限界が示される。ガンディーはイコンにすぎないというわけだ。そこで作者は、非暴力に代わる手段として、「想像力」と「語り/騙り」という新たな手段をPiに提示させる。 |
ユートピアへの眼差し―「アサイラム」と「アジール」をとおして― |
2017年 5月 |
日本比較文学会第42回中部大会 |
柳田國男に始まるサンカ研究や、それに続くサンカ文学は、サンカの姿をロマン主義的に描き出すことで、都市化や階級社会への対抗概念とした。その「語り」からは、「アサイラム」の外に「アジール」を求める書き手のイデオロギー性が読み取れるといえそうだ。が、ドイツ語の“Asyl”、フランス語の“asile”、英語の“asylum”は、ギリシア語の“ásulon”を語源にもつ派生語であり、ともに「避難所」を意味する。しかし、この2つの術語は、日本のアカデミズムの別領域で受容されると、「アサイラム=全制的施設」、「アジール=平和的避難所」として定着した。対照的な定義とは裏腹に、使い手の関心は通底しており、これら二つの術語は、常に社会批判の言説内に見受けられる。差異は、その先にある「ユートピア」への眼差しに現れるが、理想を目指す「アサイラム」内の闘争的言説が有力になる一方、「アジール」は、その空間とともに力を失っていった。 |
「絶望」を語る犯罪者を語る―加害者性と被害者性をめぐってー |
2018年10月 |
日本英文学会中部支部シンポジウム |
シンポジウム「語る・書くことの効用ー臨床・心理学の立場から・犯罪者・フクシマー」で行った発表。本発表の目的は、永山則夫をめぐる語りから、殺人犯が背負う加害者性と被害者性の撞着という「絶望」を炙り出すことにある。永山には『無知の涙』に代表される扇動的作品と、『木橋』のような叙情的小説があるが、これら二つの語りが等しく認められたわけではない。その違いは、彼の加害者性と被害者性の受けとめられ方の違いといえる。つまり、被害者・永山の語りは称賛されたが、加害者・永山の語りは手厳しく批判されたということだ。しかし、それは殺人犯・永山の両翼であり、被害者性とともに、加害者性をも引き受けたからこそ、永山は『木橋』を著すことができたと考えられる。そこで、永山への批判を見直せば、被害者性を嘉し、加害者性を叩くという人間の加害者性が通奏低音として流れていることがより明白に浮かび上がる。 |