著書名 |
単著、 共著の別 |
出版年月 |
発行所・発表雑誌等 |
概要 |
「『詩古微』の版本の異同に関する考察」 |
単著 |
1996年 9月 |
『名古屋大學中國語學文學論集』第9輯 |
公羊学者である魏源の『詩古微』について、その二つの版本、初刻二巻本と二刻二十巻本とを比較し、彼の経学思想の形成を考察した。 |
「伊藤鳳山傷寒論文字攷訳注一─傷寒論の受容と展開(三)」 |
共著 |
1997年 3月 |
『東アジア諸文化と儒教文化の混淆と対立』名古屋大学文学部教授今鷹眞編・平成七年八年特定研究報告 |
伊藤鳳山『傷寒論文字攷』を精読し、張仲景自序に関わる部分について、書き下しとともに、彼が活用したであろう書物について注を施し、江戸の儒医達がどのような知的環境下に置かれていたか検討をおこなった。 |
「伊藤鳳山傷寒論文字攷訳注二─傷寒論の受容と展開(四)」 |
共著 |
1998年11月 |
『名古屋大學中國語學文學論集』第11輯 |
前論文に引き続き、張仲景自序に関わる部分の後半に訳注を施した。前論文同様、鳳山が清朝の書物を活用していたことを確認し、さらに江戸の学者についても、伊藤仁齋らの影響が見られることを重視し検討した。 |
「伊藤鳳山傷寒論文字攷續篇訳注─傷寒論の受容と展開(五)」 |
共著 |
1999年12月 |
『名古屋大學中國語學文學論集』第12輯 |
伊藤鳳山『傷寒論文字攷續篇』を精読し、張仲景自序に関わる部分について、訳注を施し、鳳山の新たな問題提起の形跡を辿った。 |
「方苞の「義法」と八股文批評」 |
単著 |
2001年10月 |
『日本中國學會報』第53集 |
方苞の文学理論の中心を占める「義法」について、当時の八股文執筆活動との関わりという角度からその成立を論じた。 |
「八股文選家としての呂留良」 |
単著 |
2004年 3月 |
『金城学院大学論集』通巻203号 |
呂留良の八股文の批評活動を通じて、彼が自身の『四書』研究の成果をどのように表現したのか、また彼の思想が当時の知識人に与えた影響について論じた。 |
「陸隴其の四書解釈の変遷について」 |
単著 |
2005年 3月 |
『名古屋大學中國語學文學論集』第17輯 |
陸隴其が自身の四書解釈を確立する上で、呂留良の八股文批評から大きな影響を受けている。その影響関係を明らかにしながら、清初の四書解釈における八股文批評の役割を明らかにした。 |
「劉大櫆の文論と八股文批評」 |
単著 |
2006年 3月 |
『金城学院大学論集』人文科学編第2巻第2号 |
劉大櫆は桐城派に位置づけられるが、方苞からはあまり影響を受けていないとされてきた。本論文では、「論文偶記」と方苞らの八股文批評を比較しながら、方苞を中心とするグループにおいて、劉大櫆が自身の文学理論を確立していったことを明らかにした。 |
「姚門における八股文の評価」 |
単著 |
2009年 9月 |
『金城学院大学論集』人文科学編第6巻1号 |
桐城派の大成者である姚惜抱が八股文に対してどのような態度をとっていたのかを論じた。彼は古文だけでなく、八股文についても、自らに至る継承の道筋を主張した。これにより、彼は古文と八股文における正当性を打ち出したのである。 |
「『昭昧詹言』における義法と気脈」 |
単著 |
2011年12月 |
『名古屋大學中國語學文學論集』第23輯 |
桐城派の文学概念である「義法」は、姚門ではそれほど重視されていない。その例外として、方東樹の『昭昧詹言』があげられる。本論では、方東樹が詩論として「義法」を吸収しつつ、桐城派の気についても意識して継承していた痕跡が見出されることを明らかにした。 |
「方東樹師弟が桐城派形成に果たした役割」 |
単著 |
2015年 3月 |
『金城学院大学論集(人文科学編)』第11巻2号 |
方東樹師弟の学術活動が、桐城派の形成過程においてどのような意味を持つのか考察した。彼らは桐城を中心として、桐城三祖に関する著述の刊行や崇祀郷賢などの活動をおこなうことで、桐城学術の伝統を顕彰しようとした。その動機としては、当時の京師文壇に対する対抗意識があったことを明らかにした。 |
「姚瑩における桐城派への所属意識について」 |
単著 |
2015年 9月 |
『金城学院大学論集(人文科学編)』第12巻第1号 |
姚瑩が所属したグループに注目し、姚門および桐城派がどのような性質を持った集団なのかについて考察した。彼は桐城出身者、麻渓姚氏に対する同郷意識や同族意識を強く持っていた。こうした意識を基礎として、彼は姚門や京師文壇における交遊を拡大させており、その結果、桐城派が拡大する機会を提供したことを明らかにした。 |
江南における桐城派の拡大 -呉徳旋を中心にして |
単著 |
2016年 3月 |
『金城学院大学論集(人文科学編)』第12巻第2号 |
桐城派の中心となった姚門の外縁に位置する呉徳旋の交遊に注目し、桐城派の拡大について論じた。呉徳旋は私淑の弟子でありながら、姚門の中心的な弟子との深い関係が確認でき、姚門の文学主張を継承した人物である。一方で、彼は張惠言師弟や惲敬らとも深い関わりがあるが、当時、彼らは必ずしも陽湖派として独立意識を持っておらず、姚門と同じように方苞、劉大櫆の文学理論を継承していた。呉徳旋はこの両者をつなぐ位置におり、江蘇浙江を中心とした江南において桐城三祖の文学主張が拡大するのに重要な役割を果たしたことを明らかにした。 |
鍾山書院を中心とした姚門の文学活動について |
単著 |
2016年 9月 |
『金城学院大学論集 人文科学編』第13巻第1号 |
陳兆麒『蘭軒文集』に収録された文学批評に注目し、鍾山書院を中心とした姚門の文学活動について論じた。姚門内における弟子としての地位は、書簡などを通じた姚鼐および陳用光の評価に大きく関わっている。加えて、『蘭軒文集』には、姚門の主な弟子の文学批評が収められており、それを分析することで、姚門における文学主張の受容過程について明らかにした。 |
齋藤拙堂と中国の詩文論 |
単著 |
2018年 3月 |
『金城日本語日本文化』第94号 |
『拙堂文話』『続文話』の比較に加え、その間に執筆したと考えられる『士道要論』との関係についても注目して論じた。『拙堂文話』では、「気」は「時代の風気」と「著者の心構え」として捉えられていたが、『続文話』では、前者はほとんど見られず、後者も批評概念としての使用は減った。その理由は、『士道要論』において、彼が武士の心構えとして「気」を強調するようになったため、文学批評に適用しにくくなったことを明らかにした。 |